第二話 ジパング剣客事情 1
大蛇丸に趣味が出来た。とはいっても今の所本人だけが知る密やかな物である。
元々器用な男であるから博打のように競い合う型の趣味などはすぐにそれなりの腕になってしまい、勝つ一方になるのであまり面白みを感じることは無い。それに何といっても常日頃から生死のやり取りをしているのだから、なまじの勝負事ではそれに勝る緊張感を得られなかった。
結局の所、こうした男に合う趣味としては個人で楽しめる物が最適という事になるだろう。例えば読書などがそれに当たる。例とは違うが、幸いに大蛇丸は自分に合った趣味を見つけられた。
それは酒である。
忍者として育てられる過程で、酒も修行の一環に含まれていた。いざという時「酔っていたので使い物になりませんでした」では困るわけで、まず酔いに慣れるために早いうちから飲酒も日常に組み込まれる。そうはいっても体質の問題もあり、一滴であろうと駄目なものは駄目という人間もいる。その場合はどこまでなら大丈夫かという酒量の限界を量らされる。忍者という職業はまず自分を徹底的に知ることから始まるのだ。
大蛇丸も物心が付くか付かないかという頃にはもう飲まされていた。幸か不幸か酒に強い体質であったようで、酔っても全体的に高揚こそすれ、気を引き締めれば荒事をこなすのにも問題は無いという性質だった。
勿論飲むよりも飲まないほうが作業効率は上回る。だから大蛇丸は酒とは面倒な物で飲まぬなら飲まぬに越した事はない、そもそも美味いと感じた事も無い、というようにごく最近まで思っていた。
今は違う。美味いと思えるようになったという劇的なきっかけは残念ながら無いのだが、ともかく、酒を楽しめるようになってきた。強いて言えば、ただ使われるだけの日々にあった頃は美味いと思えず、使ったり使われたりの日々の今は美味いと思える、ようだった。あまり難しく考えると味を損なうので、その程度の認識しかしていない。
ともあれ、一旦酒を美味いと思うようになると、根っからの器用で凝り性な性格からより良い物を求めるようになりだした。仕事で各地に飛ぶ事が多いわけだが、その度に任務先で評判になっている酒を知ってはそれを買って楽しむ。この点部下達に公にすれば手間を省けそうなものだが、気を遣うのも遣わせるのも馬鹿馬鹿しいので知らせていない。趣味などというものは隠せば隠すだけ楽しいものだ。
派生的に、酒席という物も随分楽しめるようになってきた。無論、馬鹿騒ぎはしない。ただ座って飲んでいるだけであるが、時折見せる自然な笑みを見れば、昔の大蛇丸を知る人間は驚いたことだろう。
要は、大蛇丸に精神的な余裕が出来たという事に尽きる。多忙さは日に日に増すばかりだというのに、身にも心にも疲れが生じない。挙句には趣味にまで気が回せるのだから。
先の事はわからないのが人生だが、大蛇丸はとりあえずの今を楽しむ毎日である。
この日も大蛇丸は旧知の人間が集った席で思う存分酒を楽しんだ。
主賓は京の通人の間で「甲斐の老公」と呼ばれている老人である。その正体は数年前にジパングの東半分を騒がせた人物なのだが、本名を名乗らずに遊んでいる事もあってかそれを知る人物は少ない。実際にこの老人とつるむ連中は正体を承知した人間ばかりだが、京雀の間では気前が良く面白い爺さん程度の認識しかされていなかった。楽しく遊ばせてくれる人間のことを検索するのは野暮、といった独特の感情が働くらしい。
いつもはとにかく大勢を呼んで馬鹿騒ぎするのがこの老人の遊びの常なのだが、今回は大蛇丸に老人の知己である俳聖芭蕉とその弟子の計四名のみといささか寂しくさえある人数での酒席だった。
それでも人数を思えば異常なほど騒がしいのだが、本来言葉少なくちびちびと飲む大蛇丸には、なぜか楽しいのが不思議である。芭蕉の弟子、数多くいる弟子の中で最も若い彼、と老公のやたらと子供っぽい口論を大蛇丸と芭蕉がやれやれといった表情で眺めては酒を飲む。
この弟子、俳句の腕は芭蕉門下とは思えないくらいに下手だった。自信満々に詠みあげるそれには洗練さの欠片も無い。ただ愛嬌だけはあってそこが面白く、芭蕉が買っているのはここだろうと思われた。
下手といえば甲斐の老公も俳句は惨憺たる腕前だった。人生の長さも経験の数も相当のものだというのに、それが句に全く反映されない代物を作り上げる。やはり自信満々で。
面を合わせれば喧嘩になる老公と弟子で、今日はお互い密かに自信を持っている俳句でのことだから騒ぎっぷりはいつもの層倍だった。馬鹿馬鹿しいので大蛇丸も芭蕉もいつものように止めるでもなく放っておいたのだが、どこでどう捩れたものか、二人して大蛇丸に食って掛かり始めた。曰く、人の事を笑うのならばお前も詠んでみろ、などと。
普段の大蛇丸ならば固辞して場の空気を損ねていただろう。ただこの度は酒がいい感じで回っていたせいか快くその挑戦を受け、すらすらと一句詠んでみた。これが巧かった。芭蕉が「一枚柄を上げた」と褒めたほどである。吹っかけた側である老公と弟子は当然面白くない。ただ彼らにとって幸いに、もう一度と詠んだ大蛇丸の句は一転技に溺れた、綺麗ではあるがそれだけといった無難な代物となった。こういう時だけはやけに仲が良く馬鹿笑いする老公と弟子を尻目に、芭蕉がぽつりと呟く。「お主は褒めると駄目だな」と。あまりにも思い当たる節があって、「お恥ずかしい」と苦笑するしかない大蛇丸だった。
今大蛇丸は帰路の途中にある。酒の酔いに加えて頭上で輝いている月が見事で、随分と気分が良い。老公達は酔っているのだからここに泊まっていけと薦めてくれたのだがそれを断っての徒歩である。護衛はない。
と、目の前に男が一人立ち塞がった。不審に思う間もなく、すらりと白刃を抜いて大蛇丸を凝視している。彼を斬るつもりであるらしい。
常態の大蛇丸であれば適当に煙に巻いて退散した事だろう。昔であればいざ知らず、今の彼は殺生を楽しむ嗜好はない。ただこの時は酒が良い感じに回りすぎていた。相手をしてやるとばかりに刀を抜く。
ちなみに、大蛇丸は刀に特に愛着がない為に銘柄などに全く拘りが無い。いつも必要になった時は無造作に選んで買い求めている。その癖、いつも無銘ながらも上々の業物を引き当てていた。実に面憎い。
中々出来る相手のようだ、と大蛇丸は感心していた。構えは荒っぽいが落ち着きで一本芯が通っている。戦場経験があり人を斬るのも一度や二度ではないのだろう。不意に大蛇丸は斬られてもいいなと思った。
酒に酔い、月光の下で凶刃に斃れる。まぁまぁの死に様ではないだろうか。やらねばならない事、やりたい事、そのどちらも沢山あるが、今ここで死んでも然程の悔いは無い。後事を託される者達には済まないなと思うのだが。
勿論、本気で「死んでもいい」などと考えているわけではない。戦う前だからこんな事を考えているだけで、いざ始まってみれば無慈悲に生死を遣り取りする一個の隠密と化すのだから。現に斬りかかってきた男への大蛇丸の反撃は薄ら寒く感じるほどに冷静且つ徹底されたものだった。
振り下ろされてきた男の腕を掻い潜りするりとその右胴を斬り抜ける。その際刀を持つ掌の力を緩め、落とさない様にと気を払いながら。素面であったなら相手の衣服と皮一枚を斬っただけであったろうが、やはり微妙な匙加減が出来なかったために肉を斬ってしまった手応えを大蛇丸は感じていた。筋肉には届いただろうが臓腑には届いていない、という感触である。早急に治療すれば命に差し障りはない傷ということになる。
自分が殺されていたかもしれないというのに甘い措置なのかもしれないが、大蛇丸からすれば気分の良い夜にわざわざ殺し合いなどという極めて無粋な真似はしたくないのだ。
血の色はまだいい。あの紅さには人を酔わせる何かが確かにあるからだ。しかし血や、切り出された臓腑の匂いにはその悪酔いを醒まして余りある程の耐え難さがある。あんな物を嗅ぐ位ならたとえ悪人であろうと殺す気は無いと大蛇丸は常々考えている。一見常人の思考に見えるが、逆に言えば匂いさえどうにかなるのなら人殺しを厭いはしないという事になり、事実この大蛇丸という人物は正にそういう性格であった。到底常人とは言えない。
ともあれそれ程嫌っている悪臭を避けるために、ほろ酔い気分を醒ますのが惜しくてわざわざ手心を加えたというのに、肝心の相手ときたら見苦しくもひいひいと泣き叫んでいた。全てが台無しになったような気がして、大蛇丸は一気に萎えた。かつての彼ならこの瞬間男を殺していただろうという位に。
馬鹿馬鹿しいにも程があるだろう。他人を殺すつもりでいるくせに自分は死ぬ気はないなどというのは甘えであり、無礼だと大蛇丸は確信している。なまじ刀を交わす前はそれなりの相手と判断しただけに腹立たしさも一際だった。ために、男に近寄ってその顔を見下ろした大蛇丸の表情は大海をも凍らした氷よりなお寒く冷たい。
「で、何故だ?」
声にも聞く者がひたひたと白刃を首に押し当てられているように感じる鋭さがある。ますます狼狽して醜態をさらし、しきりに助命を請う男の様は最早滑稽であった。
すぐには殺されないというくらいは分かったのか、ぽつりぽつりと男が話した大蛇丸を狙った理由というのも面白くもない筋立てだった。曰く、飲み屋で意気投合した相手に戦さ場での自慢話をしていた所、それではこれこれこういう男を斬ってはくれないかと金を目の前に積まれたのだという。これまでにそうした依頼を受けたこともあったし、酔って気が大きくなっていたので安請け合いした、のだそうだ。
大蛇丸からすれば「またか」とか「そんな所だろうな」だとか位の感想しか持てない、日常茶飯事の出来事である。彼を恨む相手は腐るほどいるし、殺したいほど憎んでいる相手もまぁそれなりにいるからだ。とは言え、いくら酔っていようともこの程度の男に殺害を託すとは見くびられたものである。ただそう思った途端不思議な事に先程までの興醒めは失せ、面白みを覚えていたが。
にやりと笑んだ大蛇丸に更なる恐怖が芽生えたのだろう。男の震えは異常と言っていいくらいに大きな律動になっていた。そこまでしてやる義理はないのだが、治療の術(あまり得手ではない)をかけ「さっさと消えろ。二度とこういう事はするな」とらしくもない説教を加えた上で逃がしてやる事にした。最早大蛇丸がする事は全て恐怖に繋がるのだろう。いや、術を使える相手に挑んでしまったという愚かしさで余程懲りたのだろうが、男はまるで子供のようにしっかりはっきりとした頷きを大蛇丸に返し、背を向けると逃げるように駆け出した。転んだら傷口が開くだろうその必死さに大蛇丸は苦笑し、自らもくるりと向きを変えて寝床に向かって一足歩を進めた。
「ぐぁっ」という、通常時の生物ならば決して口にしないような声が大蛇丸の背後で聞こえた。遠ざかってはいたが間違いはない、先程の男の声である。
ここで振り返るような馬鹿な真似を大蛇丸はしない。逆に今出来る限りの全力で前へと跳んだ。空中を漂いながらも背面の気配を察し、無事と感じると着地してから首を向け、何が起こったのかをそこで初めて見知る。
男は胸を深々と斬られたのだろう。激しい勢いで血を撒き散らしながら崩れ落ちた。それを、雨でも受けているかのように一身に浴びながら立っている異形があった。獣面人身の剣士である。いや、闇夜に溶け込みそうな漆黒の体毛であったから、人の体格を得た獣という方がまだ正しい。白く光る右の眼と、血を覆っても尚輝く乱雑な造りの太刀だけが光を伴っている。
拙いな、と大蛇丸は感じた。距離は充分に開いているというのに、逃げられる気がまるでしない。ならば戦って勝つか。しかしそれも厳しいように思われた。
人を殺して怯える、或いは逆に笑むような輩は三下である。どれ程酔っていようと後れを取る事はないだろう。しかし、目の前の獣人(便宜上こう呼称する)には表情を感じさせるものは何もない。だというのに、殺気だけは隠す事もなく放出させていた。
その殺気もまた格別だった。無造作に放出などさせず、ただ標的だけに感じさせる。まさに獣のそれだ。
大蛇丸はヘビ一族と呼ばれる種族の血を引く。ヘビとは獲物を捕食する側であるのが常だろう。また、大蛇丸とはこれまでその血に恥じぬ生き方をしてきたと言える。その彼が、喰われる側の心境を感じつつあった。
恐怖はなく、怒りが大蛇丸の感情を支配している。この時完全に酒の酔いは醒めていた。こうなると体を動かすのに支障が出るなと感じ、その事でまた苛つきを覚える。酒を飲んだ事を後悔した点に腹が立つ、というわけだった。ほぼ万全の大蛇丸といえる。
すらりと白刃を抜いて構える大蛇丸の姿は獣人を大いに満足させたようだった。犬或いは狼のその顔に、にぃっと笑みを浮かべている。犬や狼の笑顔を生憎大蛇丸は判別した事がないが、確かにその時獣人の顔にそれを見た。
不意に、聞く者の心胆を粉微塵にするかのような咆哮を獣人が上げ、太刀を振り被り大蛇丸へ向かって突き進んでくる。
不味いな、と獣人の一撃をどうにか刀で受け流しながら大蛇丸は益々の不利を感じた。綺麗にかわせはしたものの衝撃で無残に折れた刀を放り捨てながら大蛇丸は後ろへと軽く飛び下がる。
不利とは思っても、まだ敗北するとは全く思ってはいない。ますます楽しそうな獣人の姿を見ると、闘志が湧き起こってくる。一泡も二泡も吹かせねば気がすまないというものであろう。
「風蛇」
大蛇丸がそう呟くと、彼の体はその重さが随分と軽減していた。風蛇とはヘビ一族秘伝の「術」である。風を喰らい、風を吐き出す蛇をその身に宿し、身の軽さを格段に引き上げるという効果があった。
実は、まつりと対峙した時に大蛇丸はこの術を使用していた。彼女に完勝したのはそれ故だったが、大蛇丸にそこまでさせたというだけでも百々地まつりの実力は本物と言えるだろう。
つまりは、目の前の獣人の実力も本物だと大蛇丸は認めていた。例え素面だったとしても楽には勝てないだろうなとも。
しかし、それ程の相手に対して大蛇丸の手は何の武器も握ってはいない。徒手空拳で相対するという腹積もりだった。
風蛇を使った段階で大蛇丸はまつりとの戦いを思い出したようである。もっともあの時の彼女は苦無を持っていたのだがそこは真似ず、その勢いを真似る事にして、駆け出した。
獣人の顔にさっと驚きの表情が走る。まさか自分が襲われるとは思わなかったのだろう。しかし、大蛇丸を牽制するかのように横薙ぎに振るった一撃は必殺の物だった。上体を屈めて太刀をかわした大蛇丸の髪の幾本かが斬られ舞う。
回避運動をした分勢いは若干削がれたが、それでも充分な勢いで体重を乗せた肘を大蛇丸は獣人の腹へと叩き込んだ。その影響で流石に前のめりになりむき出しになった敵の顎へと大蛇丸は今度は掌底を撃ち上げた。
並の人間なら確実に倒し得たであろう攻撃を見事に終えたにもかかわらず、大蛇丸は再び獣人との距離をとった。背中から倒れた獣人の姿をじっと眺める。
打ち込んだ肘かとらえた感覚はまさに鉄や鋼のような筋肉だった。まさか被害が皆無だったとは思いたくないが、軽微だっただろうとは推察できる。
撃ち抜いた顎もそもそもが人のそれとは大きく異なる。人間の場合であれば脳が揺れ無事では済まないのだが、獣の場合はどうなのであろうか。
大蛇丸の懸念や疑問は不幸な形の方に報われた。むくりと起き上がった獣人の姿はしっかりとした物であり、足がふらつくというような事もない。
「……久しぶりだ。こんなに楽しい殺し合いは」
獣人が全くの無事であったのは予想の範囲内の事だったが、こうして言葉を発するというのは大蛇丸の想像の外だった。人の姿をした化け物が人語を喋るのは珍しい事ではないし、大蛇丸は実際そういうものを耳にすること数限りない。
意外だったのは、完全に狂気に支配されている相手が普通に会話が出来た事にある。狂っているだけの相手であればこちらも躊躇う事も鑑みる事もなく殺意を抱ける。そういう意味では、大蛇丸の殺意はこの時挫かれた事になるだろう。
「十何年も山に在り、そこで獣や鬼を殺して生きてきた。それに比べて平地はつまらぬ敵ばかりだったが……貴様という玉に巡り合えたのだ、これまでの石との殺し合いさえも無駄ではなかったと思えてくる」
「……それは重畳」
根の一族あたりの残党の成れの果てと内心で決め付けており、それゆえ相手に対して無関心でいられた大蛇丸だったが、こうなると獣人に対しての関心を抱かずにはいられない。ちなみに現実の根の残党の成れの果てというのは十中八九狂人と化した獣以下の状態ばかりであった。目の前の獣人のように知性を感じさせる人語を話す事は無い。
「さぁ、満足行くまで殺し合おうではないか」
大きく手を広げて獣人が大蛇丸に呼び掛ける。幾ら躊躇いを覚えたとはいっても、例えこのまま戦いを続行するとしても大蛇丸にとって不本意という事は無かったろう。
だが。
「いや、申し訳ないが、今宵はここまでのようだ」
大蛇丸の言葉が終わると共に彼の部下がさっと姿を現した。その数は十人ばかり。一人一人が並の忍者を凌ぐ力量を持つが、その中にこの夜京の巡回に当っている筈のまつりがいない事が大蛇丸を内心で舌打ちさせた。
絶好の時期に大蛇丸の部下が現れたのは、彼らの頭領が使った風蛇の術のおかげである。ヘビ一族固有の術である風蛇は使用すれば強烈な蛇の気を発し纏わせる。大蛇丸はその蛇の気配を察知する事に長けた配下を作る事で彼に危機が迫った事を知らせる仕組みを作ったという次第だった。今回はその仕組みが初めて上手く機能した事例となる。まつりの時には事態の急展開に大蛇丸の部下は追いつけず、その為今回は迅速を極めたという、手痛い失敗を踏まえた成功だったのだが。
頭領の危機に、大蛇丸の部下達は一様にいきり立っている。大蛇丸にとってそこまで慕われて嬉しいような気持ちがあったが、頼もしいとは到底言い切れない。今この場に駆けつけた者達の力を借りても獣人相手に有利と言えるかは怪しいものだったからだ。
「……成る程。今夜はこれで終りという旨、承知した。俺は帰らせてもらう」
ふらりと獣人が背を向ける。
数に怯えたはずも無い。恐らくは大蛇丸に劣る敵を斬る事に面白みを感じる筈がなく、その事で興が殺がれたのだろう。正直なところ、大蛇丸は胸を撫で下ろす思いが甚だ強かった。
「名を、教えてはもらえないだろうか」
その背に大蛇丸が問い掛ける。およそ常識外れと言える問いだったが、自分を殺そうとした相手の名を知りたいというのは純粋な気持ちだとも言える。それを獣人は察した様子だったが、意外にもこれまでで初めて戸惑ったような様子を見せた。
「名は、無い。籐兵衛という名になっていたかもしれないが……」
「……」
これも不思議な感情だが大蛇丸は申し訳ないような気持ちになっていた。その様子を見て獣人は鼻で笑ったが、腹を立てたという事からではないらしい。この奇妙な状況に可笑しさを感じたのだろう。それは大蛇丸の方も同じである。
「俺の名は今度までに考えておこう。では、さらばだ」
その言葉を残して獣人は駆け出し、たちまち闇の中へと溶け込んで消えた。追いかけようとする配下達を大蛇丸が手で制する。
奇妙な気分の良さを大蛇丸は感じていた。追っ手を放てば結果がどうあろうともその心境は粉微塵になるだろう。それくらいなら、部下の不興を買おうとも今日はこのまま退散したほうがましだった。もっとも、幸い大蛇丸の配下達は頭領の無事を喜ぶばかりだったのだが。
面映くむず痒い心地で大蛇丸は寝床へ向かう。
再戦を自分が行なうかは分からないが、最善の相手を用意する事を胸中に期しながら。
元々器用な男であるから博打のように競い合う型の趣味などはすぐにそれなりの腕になってしまい、勝つ一方になるのであまり面白みを感じることは無い。それに何といっても常日頃から生死のやり取りをしているのだから、なまじの勝負事ではそれに勝る緊張感を得られなかった。
結局の所、こうした男に合う趣味としては個人で楽しめる物が最適という事になるだろう。例えば読書などがそれに当たる。例とは違うが、幸いに大蛇丸は自分に合った趣味を見つけられた。
それは酒である。
忍者として育てられる過程で、酒も修行の一環に含まれていた。いざという時「酔っていたので使い物になりませんでした」では困るわけで、まず酔いに慣れるために早いうちから飲酒も日常に組み込まれる。そうはいっても体質の問題もあり、一滴であろうと駄目なものは駄目という人間もいる。その場合はどこまでなら大丈夫かという酒量の限界を量らされる。忍者という職業はまず自分を徹底的に知ることから始まるのだ。
大蛇丸も物心が付くか付かないかという頃にはもう飲まされていた。幸か不幸か酒に強い体質であったようで、酔っても全体的に高揚こそすれ、気を引き締めれば荒事をこなすのにも問題は無いという性質だった。
勿論飲むよりも飲まないほうが作業効率は上回る。だから大蛇丸は酒とは面倒な物で飲まぬなら飲まぬに越した事はない、そもそも美味いと感じた事も無い、というようにごく最近まで思っていた。
今は違う。美味いと思えるようになったという劇的なきっかけは残念ながら無いのだが、ともかく、酒を楽しめるようになってきた。強いて言えば、ただ使われるだけの日々にあった頃は美味いと思えず、使ったり使われたりの日々の今は美味いと思える、ようだった。あまり難しく考えると味を損なうので、その程度の認識しかしていない。
ともあれ、一旦酒を美味いと思うようになると、根っからの器用で凝り性な性格からより良い物を求めるようになりだした。仕事で各地に飛ぶ事が多いわけだが、その度に任務先で評判になっている酒を知ってはそれを買って楽しむ。この点部下達に公にすれば手間を省けそうなものだが、気を遣うのも遣わせるのも馬鹿馬鹿しいので知らせていない。趣味などというものは隠せば隠すだけ楽しいものだ。
派生的に、酒席という物も随分楽しめるようになってきた。無論、馬鹿騒ぎはしない。ただ座って飲んでいるだけであるが、時折見せる自然な笑みを見れば、昔の大蛇丸を知る人間は驚いたことだろう。
要は、大蛇丸に精神的な余裕が出来たという事に尽きる。多忙さは日に日に増すばかりだというのに、身にも心にも疲れが生じない。挙句には趣味にまで気が回せるのだから。
先の事はわからないのが人生だが、大蛇丸はとりあえずの今を楽しむ毎日である。
この日も大蛇丸は旧知の人間が集った席で思う存分酒を楽しんだ。
主賓は京の通人の間で「甲斐の老公」と呼ばれている老人である。その正体は数年前にジパングの東半分を騒がせた人物なのだが、本名を名乗らずに遊んでいる事もあってかそれを知る人物は少ない。実際にこの老人とつるむ連中は正体を承知した人間ばかりだが、京雀の間では気前が良く面白い爺さん程度の認識しかされていなかった。楽しく遊ばせてくれる人間のことを検索するのは野暮、といった独特の感情が働くらしい。
いつもはとにかく大勢を呼んで馬鹿騒ぎするのがこの老人の遊びの常なのだが、今回は大蛇丸に老人の知己である俳聖芭蕉とその弟子の計四名のみといささか寂しくさえある人数での酒席だった。
それでも人数を思えば異常なほど騒がしいのだが、本来言葉少なくちびちびと飲む大蛇丸には、なぜか楽しいのが不思議である。芭蕉の弟子、数多くいる弟子の中で最も若い彼、と老公のやたらと子供っぽい口論を大蛇丸と芭蕉がやれやれといった表情で眺めては酒を飲む。
この弟子、俳句の腕は芭蕉門下とは思えないくらいに下手だった。自信満々に詠みあげるそれには洗練さの欠片も無い。ただ愛嬌だけはあってそこが面白く、芭蕉が買っているのはここだろうと思われた。
下手といえば甲斐の老公も俳句は惨憺たる腕前だった。人生の長さも経験の数も相当のものだというのに、それが句に全く反映されない代物を作り上げる。やはり自信満々で。
面を合わせれば喧嘩になる老公と弟子で、今日はお互い密かに自信を持っている俳句でのことだから騒ぎっぷりはいつもの層倍だった。馬鹿馬鹿しいので大蛇丸も芭蕉もいつものように止めるでもなく放っておいたのだが、どこでどう捩れたものか、二人して大蛇丸に食って掛かり始めた。曰く、人の事を笑うのならばお前も詠んでみろ、などと。
普段の大蛇丸ならば固辞して場の空気を損ねていただろう。ただこの度は酒がいい感じで回っていたせいか快くその挑戦を受け、すらすらと一句詠んでみた。これが巧かった。芭蕉が「一枚柄を上げた」と褒めたほどである。吹っかけた側である老公と弟子は当然面白くない。ただ彼らにとって幸いに、もう一度と詠んだ大蛇丸の句は一転技に溺れた、綺麗ではあるがそれだけといった無難な代物となった。こういう時だけはやけに仲が良く馬鹿笑いする老公と弟子を尻目に、芭蕉がぽつりと呟く。「お主は褒めると駄目だな」と。あまりにも思い当たる節があって、「お恥ずかしい」と苦笑するしかない大蛇丸だった。
今大蛇丸は帰路の途中にある。酒の酔いに加えて頭上で輝いている月が見事で、随分と気分が良い。老公達は酔っているのだからここに泊まっていけと薦めてくれたのだがそれを断っての徒歩である。護衛はない。
と、目の前に男が一人立ち塞がった。不審に思う間もなく、すらりと白刃を抜いて大蛇丸を凝視している。彼を斬るつもりであるらしい。
常態の大蛇丸であれば適当に煙に巻いて退散した事だろう。昔であればいざ知らず、今の彼は殺生を楽しむ嗜好はない。ただこの時は酒が良い感じに回りすぎていた。相手をしてやるとばかりに刀を抜く。
ちなみに、大蛇丸は刀に特に愛着がない為に銘柄などに全く拘りが無い。いつも必要になった時は無造作に選んで買い求めている。その癖、いつも無銘ながらも上々の業物を引き当てていた。実に面憎い。
中々出来る相手のようだ、と大蛇丸は感心していた。構えは荒っぽいが落ち着きで一本芯が通っている。戦場経験があり人を斬るのも一度や二度ではないのだろう。不意に大蛇丸は斬られてもいいなと思った。
酒に酔い、月光の下で凶刃に斃れる。まぁまぁの死に様ではないだろうか。やらねばならない事、やりたい事、そのどちらも沢山あるが、今ここで死んでも然程の悔いは無い。後事を託される者達には済まないなと思うのだが。
勿論、本気で「死んでもいい」などと考えているわけではない。戦う前だからこんな事を考えているだけで、いざ始まってみれば無慈悲に生死を遣り取りする一個の隠密と化すのだから。現に斬りかかってきた男への大蛇丸の反撃は薄ら寒く感じるほどに冷静且つ徹底されたものだった。
振り下ろされてきた男の腕を掻い潜りするりとその右胴を斬り抜ける。その際刀を持つ掌の力を緩め、落とさない様にと気を払いながら。素面であったなら相手の衣服と皮一枚を斬っただけであったろうが、やはり微妙な匙加減が出来なかったために肉を斬ってしまった手応えを大蛇丸は感じていた。筋肉には届いただろうが臓腑には届いていない、という感触である。早急に治療すれば命に差し障りはない傷ということになる。
自分が殺されていたかもしれないというのに甘い措置なのかもしれないが、大蛇丸からすれば気分の良い夜にわざわざ殺し合いなどという極めて無粋な真似はしたくないのだ。
血の色はまだいい。あの紅さには人を酔わせる何かが確かにあるからだ。しかし血や、切り出された臓腑の匂いにはその悪酔いを醒まして余りある程の耐え難さがある。あんな物を嗅ぐ位ならたとえ悪人であろうと殺す気は無いと大蛇丸は常々考えている。一見常人の思考に見えるが、逆に言えば匂いさえどうにかなるのなら人殺しを厭いはしないという事になり、事実この大蛇丸という人物は正にそういう性格であった。到底常人とは言えない。
ともあれそれ程嫌っている悪臭を避けるために、ほろ酔い気分を醒ますのが惜しくてわざわざ手心を加えたというのに、肝心の相手ときたら見苦しくもひいひいと泣き叫んでいた。全てが台無しになったような気がして、大蛇丸は一気に萎えた。かつての彼ならこの瞬間男を殺していただろうという位に。
馬鹿馬鹿しいにも程があるだろう。他人を殺すつもりでいるくせに自分は死ぬ気はないなどというのは甘えであり、無礼だと大蛇丸は確信している。なまじ刀を交わす前はそれなりの相手と判断しただけに腹立たしさも一際だった。ために、男に近寄ってその顔を見下ろした大蛇丸の表情は大海をも凍らした氷よりなお寒く冷たい。
「で、何故だ?」
声にも聞く者がひたひたと白刃を首に押し当てられているように感じる鋭さがある。ますます狼狽して醜態をさらし、しきりに助命を請う男の様は最早滑稽であった。
すぐには殺されないというくらいは分かったのか、ぽつりぽつりと男が話した大蛇丸を狙った理由というのも面白くもない筋立てだった。曰く、飲み屋で意気投合した相手に戦さ場での自慢話をしていた所、それではこれこれこういう男を斬ってはくれないかと金を目の前に積まれたのだという。これまでにそうした依頼を受けたこともあったし、酔って気が大きくなっていたので安請け合いした、のだそうだ。
大蛇丸からすれば「またか」とか「そんな所だろうな」だとか位の感想しか持てない、日常茶飯事の出来事である。彼を恨む相手は腐るほどいるし、殺したいほど憎んでいる相手もまぁそれなりにいるからだ。とは言え、いくら酔っていようともこの程度の男に殺害を託すとは見くびられたものである。ただそう思った途端不思議な事に先程までの興醒めは失せ、面白みを覚えていたが。
にやりと笑んだ大蛇丸に更なる恐怖が芽生えたのだろう。男の震えは異常と言っていいくらいに大きな律動になっていた。そこまでしてやる義理はないのだが、治療の術(あまり得手ではない)をかけ「さっさと消えろ。二度とこういう事はするな」とらしくもない説教を加えた上で逃がしてやる事にした。最早大蛇丸がする事は全て恐怖に繋がるのだろう。いや、術を使える相手に挑んでしまったという愚かしさで余程懲りたのだろうが、男はまるで子供のようにしっかりはっきりとした頷きを大蛇丸に返し、背を向けると逃げるように駆け出した。転んだら傷口が開くだろうその必死さに大蛇丸は苦笑し、自らもくるりと向きを変えて寝床に向かって一足歩を進めた。
「ぐぁっ」という、通常時の生物ならば決して口にしないような声が大蛇丸の背後で聞こえた。遠ざかってはいたが間違いはない、先程の男の声である。
ここで振り返るような馬鹿な真似を大蛇丸はしない。逆に今出来る限りの全力で前へと跳んだ。空中を漂いながらも背面の気配を察し、無事と感じると着地してから首を向け、何が起こったのかをそこで初めて見知る。
男は胸を深々と斬られたのだろう。激しい勢いで血を撒き散らしながら崩れ落ちた。それを、雨でも受けているかのように一身に浴びながら立っている異形があった。獣面人身の剣士である。いや、闇夜に溶け込みそうな漆黒の体毛であったから、人の体格を得た獣という方がまだ正しい。白く光る右の眼と、血を覆っても尚輝く乱雑な造りの太刀だけが光を伴っている。
拙いな、と大蛇丸は感じた。距離は充分に開いているというのに、逃げられる気がまるでしない。ならば戦って勝つか。しかしそれも厳しいように思われた。
人を殺して怯える、或いは逆に笑むような輩は三下である。どれ程酔っていようと後れを取る事はないだろう。しかし、目の前の獣人(便宜上こう呼称する)には表情を感じさせるものは何もない。だというのに、殺気だけは隠す事もなく放出させていた。
その殺気もまた格別だった。無造作に放出などさせず、ただ標的だけに感じさせる。まさに獣のそれだ。
大蛇丸はヘビ一族と呼ばれる種族の血を引く。ヘビとは獲物を捕食する側であるのが常だろう。また、大蛇丸とはこれまでその血に恥じぬ生き方をしてきたと言える。その彼が、喰われる側の心境を感じつつあった。
恐怖はなく、怒りが大蛇丸の感情を支配している。この時完全に酒の酔いは醒めていた。こうなると体を動かすのに支障が出るなと感じ、その事でまた苛つきを覚える。酒を飲んだ事を後悔した点に腹が立つ、というわけだった。ほぼ万全の大蛇丸といえる。
すらりと白刃を抜いて構える大蛇丸の姿は獣人を大いに満足させたようだった。犬或いは狼のその顔に、にぃっと笑みを浮かべている。犬や狼の笑顔を生憎大蛇丸は判別した事がないが、確かにその時獣人の顔にそれを見た。
不意に、聞く者の心胆を粉微塵にするかのような咆哮を獣人が上げ、太刀を振り被り大蛇丸へ向かって突き進んでくる。
不味いな、と獣人の一撃をどうにか刀で受け流しながら大蛇丸は益々の不利を感じた。綺麗にかわせはしたものの衝撃で無残に折れた刀を放り捨てながら大蛇丸は後ろへと軽く飛び下がる。
不利とは思っても、まだ敗北するとは全く思ってはいない。ますます楽しそうな獣人の姿を見ると、闘志が湧き起こってくる。一泡も二泡も吹かせねば気がすまないというものであろう。
「風蛇」
大蛇丸がそう呟くと、彼の体はその重さが随分と軽減していた。風蛇とはヘビ一族秘伝の「術」である。風を喰らい、風を吐き出す蛇をその身に宿し、身の軽さを格段に引き上げるという効果があった。
実は、まつりと対峙した時に大蛇丸はこの術を使用していた。彼女に完勝したのはそれ故だったが、大蛇丸にそこまでさせたというだけでも百々地まつりの実力は本物と言えるだろう。
つまりは、目の前の獣人の実力も本物だと大蛇丸は認めていた。例え素面だったとしても楽には勝てないだろうなとも。
しかし、それ程の相手に対して大蛇丸の手は何の武器も握ってはいない。徒手空拳で相対するという腹積もりだった。
風蛇を使った段階で大蛇丸はまつりとの戦いを思い出したようである。もっともあの時の彼女は苦無を持っていたのだがそこは真似ず、その勢いを真似る事にして、駆け出した。
獣人の顔にさっと驚きの表情が走る。まさか自分が襲われるとは思わなかったのだろう。しかし、大蛇丸を牽制するかのように横薙ぎに振るった一撃は必殺の物だった。上体を屈めて太刀をかわした大蛇丸の髪の幾本かが斬られ舞う。
回避運動をした分勢いは若干削がれたが、それでも充分な勢いで体重を乗せた肘を大蛇丸は獣人の腹へと叩き込んだ。その影響で流石に前のめりになりむき出しになった敵の顎へと大蛇丸は今度は掌底を撃ち上げた。
並の人間なら確実に倒し得たであろう攻撃を見事に終えたにもかかわらず、大蛇丸は再び獣人との距離をとった。背中から倒れた獣人の姿をじっと眺める。
打ち込んだ肘かとらえた感覚はまさに鉄や鋼のような筋肉だった。まさか被害が皆無だったとは思いたくないが、軽微だっただろうとは推察できる。
撃ち抜いた顎もそもそもが人のそれとは大きく異なる。人間の場合であれば脳が揺れ無事では済まないのだが、獣の場合はどうなのであろうか。
大蛇丸の懸念や疑問は不幸な形の方に報われた。むくりと起き上がった獣人の姿はしっかりとした物であり、足がふらつくというような事もない。
「……久しぶりだ。こんなに楽しい殺し合いは」
獣人が全くの無事であったのは予想の範囲内の事だったが、こうして言葉を発するというのは大蛇丸の想像の外だった。人の姿をした化け物が人語を喋るのは珍しい事ではないし、大蛇丸は実際そういうものを耳にすること数限りない。
意外だったのは、完全に狂気に支配されている相手が普通に会話が出来た事にある。狂っているだけの相手であればこちらも躊躇う事も鑑みる事もなく殺意を抱ける。そういう意味では、大蛇丸の殺意はこの時挫かれた事になるだろう。
「十何年も山に在り、そこで獣や鬼を殺して生きてきた。それに比べて平地はつまらぬ敵ばかりだったが……貴様という玉に巡り合えたのだ、これまでの石との殺し合いさえも無駄ではなかったと思えてくる」
「……それは重畳」
根の一族あたりの残党の成れの果てと内心で決め付けており、それゆえ相手に対して無関心でいられた大蛇丸だったが、こうなると獣人に対しての関心を抱かずにはいられない。ちなみに現実の根の残党の成れの果てというのは十中八九狂人と化した獣以下の状態ばかりであった。目の前の獣人のように知性を感じさせる人語を話す事は無い。
「さぁ、満足行くまで殺し合おうではないか」
大きく手を広げて獣人が大蛇丸に呼び掛ける。幾ら躊躇いを覚えたとはいっても、例えこのまま戦いを続行するとしても大蛇丸にとって不本意という事は無かったろう。
だが。
「いや、申し訳ないが、今宵はここまでのようだ」
大蛇丸の言葉が終わると共に彼の部下がさっと姿を現した。その数は十人ばかり。一人一人が並の忍者を凌ぐ力量を持つが、その中にこの夜京の巡回に当っている筈のまつりがいない事が大蛇丸を内心で舌打ちさせた。
絶好の時期に大蛇丸の部下が現れたのは、彼らの頭領が使った風蛇の術のおかげである。ヘビ一族固有の術である風蛇は使用すれば強烈な蛇の気を発し纏わせる。大蛇丸はその蛇の気配を察知する事に長けた配下を作る事で彼に危機が迫った事を知らせる仕組みを作ったという次第だった。今回はその仕組みが初めて上手く機能した事例となる。まつりの時には事態の急展開に大蛇丸の部下は追いつけず、その為今回は迅速を極めたという、手痛い失敗を踏まえた成功だったのだが。
頭領の危機に、大蛇丸の部下達は一様にいきり立っている。大蛇丸にとってそこまで慕われて嬉しいような気持ちがあったが、頼もしいとは到底言い切れない。今この場に駆けつけた者達の力を借りても獣人相手に有利と言えるかは怪しいものだったからだ。
「……成る程。今夜はこれで終りという旨、承知した。俺は帰らせてもらう」
ふらりと獣人が背を向ける。
数に怯えたはずも無い。恐らくは大蛇丸に劣る敵を斬る事に面白みを感じる筈がなく、その事で興が殺がれたのだろう。正直なところ、大蛇丸は胸を撫で下ろす思いが甚だ強かった。
「名を、教えてはもらえないだろうか」
その背に大蛇丸が問い掛ける。およそ常識外れと言える問いだったが、自分を殺そうとした相手の名を知りたいというのは純粋な気持ちだとも言える。それを獣人は察した様子だったが、意外にもこれまでで初めて戸惑ったような様子を見せた。
「名は、無い。籐兵衛という名になっていたかもしれないが……」
「……」
これも不思議な感情だが大蛇丸は申し訳ないような気持ちになっていた。その様子を見て獣人は鼻で笑ったが、腹を立てたという事からではないらしい。この奇妙な状況に可笑しさを感じたのだろう。それは大蛇丸の方も同じである。
「俺の名は今度までに考えておこう。では、さらばだ」
その言葉を残して獣人は駆け出し、たちまち闇の中へと溶け込んで消えた。追いかけようとする配下達を大蛇丸が手で制する。
奇妙な気分の良さを大蛇丸は感じていた。追っ手を放てば結果がどうあろうともその心境は粉微塵になるだろう。それくらいなら、部下の不興を買おうとも今日はこのまま退散したほうがましだった。もっとも、幸い大蛇丸の配下達は頭領の無事を喜ぶばかりだったのだが。
面映くむず痒い心地で大蛇丸は寝床へ向かう。
再戦を自分が行なうかは分からないが、最善の相手を用意する事を胸中に期しながら。