第二話 ジパング剣客事情 1

 大蛇丸に趣味が出来た。とはいっても今の所本人だけが知る密やかな物である。
 元々器用な男であるから博打のように競い合う型の趣味などはすぐにそれなりの腕になってしまい、勝つ一方になるのであまり面白みを感じることは無い。それに何といっても常日頃から生死のやり取りをしているのだから、なまじの勝負事ではそれに勝る緊張感を得られなかった。
 結局の所、こうした男に合う趣味としては個人で楽しめる物が最適という事になるだろう。例えば読書などがそれに当たる。例とは違うが、幸いに大蛇丸は自分に合った趣味を見つけられた。
 それは酒である。

 忍者として育てられる過程で、酒も修行の一環に含まれていた。いざという時「酔っていたので使い物になりませんでした」では困るわけで、まず酔いに慣れるために早いうちから飲酒も日常に組み込まれる。そうはいっても体質の問題もあり、一滴であろうと駄目なものは駄目という人間もいる。その場合はどこまでなら大丈夫かという酒量の限界を量らされる。忍者という職業はまず自分を徹底的に知ることから始まるのだ。
 大蛇丸も物心が付くか付かないかという頃にはもう飲まされていた。幸か不幸か酒に強い体質であったようで、酔っても全体的に高揚こそすれ、気を引き締めれば荒事をこなすのにも問題は無いという性質だった。
 勿論飲むよりも飲まないほうが作業効率は上回る。だから大蛇丸は酒とは面倒な物で飲まぬなら飲まぬに越した事はない、そもそも美味いと感じた事も無い、というようにごく最近まで思っていた。
 今は違う。美味いと思えるようになったという劇的なきっかけは残念ながら無いのだが、ともかく、酒を楽しめるようになってきた。強いて言えば、ただ使われるだけの日々にあった頃は美味いと思えず、使ったり使われたりの日々の今は美味いと思える、ようだった。あまり難しく考えると味を損なうので、その程度の認識しかしていない。
 ともあれ、一旦酒を美味いと思うようになると、根っからの器用で凝り性な性格からより良い物を求めるようになりだした。仕事で各地に飛ぶ事が多いわけだが、その度に任務先で評判になっている酒を知ってはそれを買って楽しむ。この点部下達に公にすれば手間を省けそうなものだが、気を遣うのも遣わせるのも馬鹿馬鹿しいので知らせていない。趣味などというものは隠せば隠すだけ楽しいものだ。
 派生的に、酒席という物も随分楽しめるようになってきた。無論、馬鹿騒ぎはしない。ただ座って飲んでいるだけであるが、時折見せる自然な笑みを見れば、昔の大蛇丸を知る人間は驚いたことだろう。
 要は、大蛇丸に精神的な余裕が出来たという事に尽きる。多忙さは日に日に増すばかりだというのに、身にも心にも疲れが生じない。挙句には趣味にまで気が回せるのだから。
 先の事はわからないのが人生だが、大蛇丸はとりあえずの今を楽しむ毎日である。

 この日も大蛇丸は旧知の人間が集った席で思う存分酒を楽しんだ。
 主賓は京の通人の間で「甲斐の老公」と呼ばれている老人である。その正体は数年前にジパングの東半分を騒がせた人物なのだが、本名を名乗らずに遊んでいる事もあってかそれを知る人物は少ない。実際にこの老人とつるむ連中は正体を承知した人間ばかりだが、京雀の間では気前が良く面白い爺さん程度の認識しかされていなかった。楽しく遊ばせてくれる人間のことを検索するのは野暮、といった独特の感情が働くらしい。
 いつもはとにかく大勢を呼んで馬鹿騒ぎするのがこの老人の遊びの常なのだが、今回は大蛇丸に老人の知己である俳聖芭蕉とその弟子の計四名のみといささか寂しくさえある人数での酒席だった。
 それでも人数を思えば異常なほど騒がしいのだが、本来言葉少なくちびちびと飲む大蛇丸には、なぜか楽しいのが不思議である。芭蕉の弟子、数多くいる弟子の中で最も若い彼、と老公のやたらと子供っぽい口論を大蛇丸と芭蕉がやれやれといった表情で眺めては酒を飲む。
 この弟子、俳句の腕は芭蕉門下とは思えないくらいに下手だった。自信満々に詠みあげるそれには洗練さの欠片も無い。ただ愛嬌だけはあってそこが面白く、芭蕉が買っているのはここだろうと思われた。
 下手といえば甲斐の老公も俳句は惨憺たる腕前だった。人生の長さも経験の数も相当のものだというのに、それが句に全く反映されない代物を作り上げる。やはり自信満々で。
 面を合わせれば喧嘩になる老公と弟子で、今日はお互い密かに自信を持っている俳句でのことだから騒ぎっぷりはいつもの層倍だった。馬鹿馬鹿しいので大蛇丸も芭蕉もいつものように止めるでもなく放っておいたのだが、どこでどう捩れたものか、二人して大蛇丸に食って掛かり始めた。曰く、人の事を笑うのならばお前も詠んでみろ、などと。
 普段の大蛇丸ならば固辞して場の空気を損ねていただろう。ただこの度は酒がいい感じで回っていたせいか快くその挑戦を受け、すらすらと一句詠んでみた。これが巧かった。芭蕉が「一枚柄を上げた」と褒めたほどである。吹っかけた側である老公と弟子は当然面白くない。ただ彼らにとって幸いに、もう一度と詠んだ大蛇丸の句は一転技に溺れた、綺麗ではあるがそれだけといった無難な代物となった。こういう時だけはやけに仲が良く馬鹿笑いする老公と弟子を尻目に、芭蕉がぽつりと呟く。「お主は褒めると駄目だな」と。あまりにも思い当たる節があって、「お恥ずかしい」と苦笑するしかない大蛇丸だった。

 今大蛇丸は帰路の途中にある。酒の酔いに加えて頭上で輝いている月が見事で、随分と気分が良い。老公達は酔っているのだからここに泊まっていけと薦めてくれたのだがそれを断っての徒歩である。護衛はない。
 と、目の前に男が一人立ち塞がった。不審に思う間もなく、すらりと白刃を抜いて大蛇丸を凝視している。彼を斬るつもりであるらしい。
 常態の大蛇丸であれば適当に煙に巻いて退散した事だろう。昔であればいざ知らず、今の彼は殺生を楽しむ嗜好はない。ただこの時は酒が良い感じに回りすぎていた。相手をしてやるとばかりに刀を抜く。
 ちなみに、大蛇丸は刀に特に愛着がない為に銘柄などに全く拘りが無い。いつも必要になった時は無造作に選んで買い求めている。その癖、いつも無銘ながらも上々の業物を引き当てていた。実に面憎い。
 中々出来る相手のようだ、と大蛇丸は感心していた。構えは荒っぽいが落ち着きで一本芯が通っている。戦場経験があり人を斬るのも一度や二度ではないのだろう。不意に大蛇丸は斬られてもいいなと思った。
 酒に酔い、月光の下で凶刃に斃れる。まぁまぁの死に様ではないだろうか。やらねばならない事、やりたい事、そのどちらも沢山あるが、今ここで死んでも然程の悔いは無い。後事を託される者達には済まないなと思うのだが。
 勿論、本気で「死んでもいい」などと考えているわけではない。戦う前だからこんな事を考えているだけで、いざ始まってみれば無慈悲に生死を遣り取りする一個の隠密と化すのだから。現に斬りかかってきた男への大蛇丸の反撃は薄ら寒く感じるほどに冷静且つ徹底されたものだった。
 振り下ろされてきた男の腕を掻い潜りするりとその右胴を斬り抜ける。その際刀を持つ掌の力を緩め、落とさない様にと気を払いながら。素面であったなら相手の衣服と皮一枚を斬っただけであったろうが、やはり微妙な匙加減が出来なかったために肉を斬ってしまった手応えを大蛇丸は感じていた。筋肉には届いただろうが臓腑には届いていない、という感触である。早急に治療すれば命に差し障りはない傷ということになる。
 自分が殺されていたかもしれないというのに甘い措置なのかもしれないが、大蛇丸からすれば気分の良い夜にわざわざ殺し合いなどという極めて無粋な真似はしたくないのだ。
 血の色はまだいい。あの紅さには人を酔わせる何かが確かにあるからだ。しかし血や、切り出された臓腑の匂いにはその悪酔いを醒まして余りある程の耐え難さがある。あんな物を嗅ぐ位ならたとえ悪人であろうと殺す気は無いと大蛇丸は常々考えている。一見常人の思考に見えるが、逆に言えば匂いさえどうにかなるのなら人殺しを厭いはしないという事になり、事実この大蛇丸という人物は正にそういう性格であった。到底常人とは言えない。
 ともあれそれ程嫌っている悪臭を避けるために、ほろ酔い気分を醒ますのが惜しくてわざわざ手心を加えたというのに、肝心の相手ときたら見苦しくもひいひいと泣き叫んでいた。全てが台無しになったような気がして、大蛇丸は一気に萎えた。かつての彼ならこの瞬間男を殺していただろうという位に。
 馬鹿馬鹿しいにも程があるだろう。他人を殺すつもりでいるくせに自分は死ぬ気はないなどというのは甘えであり、無礼だと大蛇丸は確信している。なまじ刀を交わす前はそれなりの相手と判断しただけに腹立たしさも一際だった。ために、男に近寄ってその顔を見下ろした大蛇丸の表情は大海をも凍らした氷よりなお寒く冷たい。
「で、何故だ?」
 声にも聞く者がひたひたと白刃を首に押し当てられているように感じる鋭さがある。ますます狼狽して醜態をさらし、しきりに助命を請う男の様は最早滑稽であった。
 すぐには殺されないというくらいは分かったのか、ぽつりぽつりと男が話した大蛇丸を狙った理由というのも面白くもない筋立てだった。曰く、飲み屋で意気投合した相手に戦さ場での自慢話をしていた所、それではこれこれこういう男を斬ってはくれないかと金を目の前に積まれたのだという。これまでにそうした依頼を受けたこともあったし、酔って気が大きくなっていたので安請け合いした、のだそうだ。
 大蛇丸からすれば「またか」とか「そんな所だろうな」だとか位の感想しか持てない、日常茶飯事の出来事である。彼を恨む相手は腐るほどいるし、殺したいほど憎んでいる相手もまぁそれなりにいるからだ。とは言え、いくら酔っていようともこの程度の男に殺害を託すとは見くびられたものである。ただそう思った途端不思議な事に先程までの興醒めは失せ、面白みを覚えていたが。
 にやりと笑んだ大蛇丸に更なる恐怖が芽生えたのだろう。男の震えは異常と言っていいくらいに大きな律動になっていた。そこまでしてやる義理はないのだが、治療の術(あまり得手ではない)をかけ「さっさと消えろ。二度とこういう事はするな」とらしくもない説教を加えた上で逃がしてやる事にした。最早大蛇丸がする事は全て恐怖に繋がるのだろう。いや、術を使える相手に挑んでしまったという愚かしさで余程懲りたのだろうが、男はまるで子供のようにしっかりはっきりとした頷きを大蛇丸に返し、背を向けると逃げるように駆け出した。転んだら傷口が開くだろうその必死さに大蛇丸は苦笑し、自らもくるりと向きを変えて寝床に向かって一足歩を進めた。

 「ぐぁっ」という、通常時の生物ならば決して口にしないような声が大蛇丸の背後で聞こえた。遠ざかってはいたが間違いはない、先程の男の声である。
 ここで振り返るような馬鹿な真似を大蛇丸はしない。逆に今出来る限りの全力で前へと跳んだ。空中を漂いながらも背面の気配を察し、無事と感じると着地してから首を向け、何が起こったのかをそこで初めて見知る。
 男は胸を深々と斬られたのだろう。激しい勢いで血を撒き散らしながら崩れ落ちた。それを、雨でも受けているかのように一身に浴びながら立っている異形があった。獣面人身の剣士である。いや、闇夜に溶け込みそうな漆黒の体毛であったから、人の体格を得た獣という方がまだ正しい。白く光る右の眼と、血を覆っても尚輝く乱雑な造りの太刀だけが光を伴っている。
 拙いな、と大蛇丸は感じた。距離は充分に開いているというのに、逃げられる気がまるでしない。ならば戦って勝つか。しかしそれも厳しいように思われた。
 人を殺して怯える、或いは逆に笑むような輩は三下である。どれ程酔っていようと後れを取る事はないだろう。しかし、目の前の獣人(便宜上こう呼称する)には表情を感じさせるものは何もない。だというのに、殺気だけは隠す事もなく放出させていた。
 その殺気もまた格別だった。無造作に放出などさせず、ただ標的だけに感じさせる。まさに獣のそれだ。
 大蛇丸はヘビ一族と呼ばれる種族の血を引く。ヘビとは獲物を捕食する側であるのが常だろう。また、大蛇丸とはこれまでその血に恥じぬ生き方をしてきたと言える。その彼が、喰われる側の心境を感じつつあった。
 恐怖はなく、怒りが大蛇丸の感情を支配している。この時完全に酒の酔いは醒めていた。こうなると体を動かすのに支障が出るなと感じ、その事でまた苛つきを覚える。酒を飲んだ事を後悔した点に腹が立つ、というわけだった。ほぼ万全の大蛇丸といえる。
 すらりと白刃を抜いて構える大蛇丸の姿は獣人を大いに満足させたようだった。犬或いは狼のその顔に、にぃっと笑みを浮かべている。犬や狼の笑顔を生憎大蛇丸は判別した事がないが、確かにその時獣人の顔にそれを見た。
 不意に、聞く者の心胆を粉微塵にするかのような咆哮を獣人が上げ、太刀を振り被り大蛇丸へ向かって突き進んでくる。
 不味いな、と獣人の一撃をどうにか刀で受け流しながら大蛇丸は益々の不利を感じた。綺麗にかわせはしたものの衝撃で無残に折れた刀を放り捨てながら大蛇丸は後ろへと軽く飛び下がる。
 不利とは思っても、まだ敗北するとは全く思ってはいない。ますます楽しそうな獣人の姿を見ると、闘志が湧き起こってくる。一泡も二泡も吹かせねば気がすまないというものであろう。
「風蛇」
 大蛇丸がそう呟くと、彼の体はその重さが随分と軽減していた。風蛇とはヘビ一族秘伝の「術」である。風を喰らい、風を吐き出す蛇をその身に宿し、身の軽さを格段に引き上げるという効果があった。
 実は、まつりと対峙した時に大蛇丸はこの術を使用していた。彼女に完勝したのはそれ故だったが、大蛇丸にそこまでさせたというだけでも百々地まつりの実力は本物と言えるだろう。
 つまりは、目の前の獣人の実力も本物だと大蛇丸は認めていた。例え素面だったとしても楽には勝てないだろうなとも。
 しかし、それ程の相手に対して大蛇丸の手は何の武器も握ってはいない。徒手空拳で相対するという腹積もりだった。
 風蛇を使った段階で大蛇丸はまつりとの戦いを思い出したようである。もっともあの時の彼女は苦無を持っていたのだがそこは真似ず、その勢いを真似る事にして、駆け出した。
 獣人の顔にさっと驚きの表情が走る。まさか自分が襲われるとは思わなかったのだろう。しかし、大蛇丸を牽制するかのように横薙ぎに振るった一撃は必殺の物だった。上体を屈めて太刀をかわした大蛇丸の髪の幾本かが斬られ舞う。
 回避運動をした分勢いは若干削がれたが、それでも充分な勢いで体重を乗せた肘を大蛇丸は獣人の腹へと叩き込んだ。その影響で流石に前のめりになりむき出しになった敵の顎へと大蛇丸は今度は掌底を撃ち上げた。
 並の人間なら確実に倒し得たであろう攻撃を見事に終えたにもかかわらず、大蛇丸は再び獣人との距離をとった。背中から倒れた獣人の姿をじっと眺める。
 打ち込んだ肘かとらえた感覚はまさに鉄や鋼のような筋肉だった。まさか被害が皆無だったとは思いたくないが、軽微だっただろうとは推察できる。
 撃ち抜いた顎もそもそもが人のそれとは大きく異なる。人間の場合であれば脳が揺れ無事では済まないのだが、獣の場合はどうなのであろうか。
 大蛇丸の懸念や疑問は不幸な形の方に報われた。むくりと起き上がった獣人の姿はしっかりとした物であり、足がふらつくというような事もない。
「……久しぶりだ。こんなに楽しい殺し合いは」
 獣人が全くの無事であったのは予想の範囲内の事だったが、こうして言葉を発するというのは大蛇丸の想像の外だった。人の姿をした化け物が人語を喋るのは珍しい事ではないし、大蛇丸は実際そういうものを耳にすること数限りない。
 意外だったのは、完全に狂気に支配されている相手が普通に会話が出来た事にある。狂っているだけの相手であればこちらも躊躇う事も鑑みる事もなく殺意を抱ける。そういう意味では、大蛇丸の殺意はこの時挫かれた事になるだろう。
「十何年も山に在り、そこで獣や鬼を殺して生きてきた。それに比べて平地はつまらぬ敵ばかりだったが……貴様という玉に巡り合えたのだ、これまでの石との殺し合いさえも無駄ではなかったと思えてくる」
「……それは重畳」
 根の一族あたりの残党の成れの果てと内心で決め付けており、それゆえ相手に対して無関心でいられた大蛇丸だったが、こうなると獣人に対しての関心を抱かずにはいられない。ちなみに現実の根の残党の成れの果てというのは十中八九狂人と化した獣以下の状態ばかりであった。目の前の獣人のように知性を感じさせる人語を話す事は無い。
「さぁ、満足行くまで殺し合おうではないか」
 大きく手を広げて獣人が大蛇丸に呼び掛ける。幾ら躊躇いを覚えたとはいっても、例えこのまま戦いを続行するとしても大蛇丸にとって不本意という事は無かったろう。
 だが。
「いや、申し訳ないが、今宵はここまでのようだ」
 大蛇丸の言葉が終わると共に彼の部下がさっと姿を現した。その数は十人ばかり。一人一人が並の忍者を凌ぐ力量を持つが、その中にこの夜京の巡回に当っている筈のまつりがいない事が大蛇丸を内心で舌打ちさせた。
 絶好の時期に大蛇丸の部下が現れたのは、彼らの頭領が使った風蛇の術のおかげである。ヘビ一族固有の術である風蛇は使用すれば強烈な蛇の気を発し纏わせる。大蛇丸はその蛇の気配を察知する事に長けた配下を作る事で彼に危機が迫った事を知らせる仕組みを作ったという次第だった。今回はその仕組みが初めて上手く機能した事例となる。まつりの時には事態の急展開に大蛇丸の部下は追いつけず、その為今回は迅速を極めたという、手痛い失敗を踏まえた成功だったのだが。
 頭領の危機に、大蛇丸の部下達は一様にいきり立っている。大蛇丸にとってそこまで慕われて嬉しいような気持ちがあったが、頼もしいとは到底言い切れない。今この場に駆けつけた者達の力を借りても獣人相手に有利と言えるかは怪しいものだったからだ。
「……成る程。今夜はこれで終りという旨、承知した。俺は帰らせてもらう」
 ふらりと獣人が背を向ける。
 数に怯えたはずも無い。恐らくは大蛇丸に劣る敵を斬る事に面白みを感じる筈がなく、その事で興が殺がれたのだろう。正直なところ、大蛇丸は胸を撫で下ろす思いが甚だ強かった。
「名を、教えてはもらえないだろうか」
 その背に大蛇丸が問い掛ける。およそ常識外れと言える問いだったが、自分を殺そうとした相手の名を知りたいというのは純粋な気持ちだとも言える。それを獣人は察した様子だったが、意外にもこれまでで初めて戸惑ったような様子を見せた。
「名は、無い。籐兵衛という名になっていたかもしれないが……」
「……」
 これも不思議な感情だが大蛇丸は申し訳ないような気持ちになっていた。その様子を見て獣人は鼻で笑ったが、腹を立てたという事からではないらしい。この奇妙な状況に可笑しさを感じたのだろう。それは大蛇丸の方も同じである。
「俺の名は今度までに考えておこう。では、さらばだ」
 その言葉を残して獣人は駆け出し、たちまち闇の中へと溶け込んで消えた。追いかけようとする配下達を大蛇丸が手で制する。
 奇妙な気分の良さを大蛇丸は感じていた。追っ手を放てば結果がどうあろうともその心境は粉微塵になるだろう。それくらいなら、部下の不興を買おうとも今日はこのまま退散したほうがましだった。もっとも、幸い大蛇丸の配下達は頭領の無事を喜ぶばかりだったのだが。
 面映くむず痒い心地で大蛇丸は寝床へ向かう。
 再戦を自分が行なうかは分からないが、最善の相手を用意する事を胸中に期しながら。

第一話 花の都の男と女 2

 カブキ団十郎という男がいる。あまりにふざけた名前だから実は偽名なのかもしれない。この名でジパングに知れ渡った為に、これが本名として自他共に定着してしまったというのが案外真実ではなかっただろうか。
 元々は尾張では名の知れた悪童だった。幼少の頃からろくでもないいたずらをしでかしては、その悪名を高めていた。
 腕っ節が強いというのがまず悪名を上げた理由の第一である。格別に優れた体躯でもないのに兎に角強い。喧嘩という範疇に収まるのであれば無敗だった。
 頭も良い。知識があるというわけではないのだが、知恵が良く働いた。勿論悪知恵という意味でである。十代前半の頃は詐欺まがいの事もしばしば行なっていたようである。
 容姿も良かった。服装こそ女物を我流に着崩すという奇抜極まりないものだがそれも自信満々のカブキを見ると不思議と違和感が無くなる。また、顔の造りはよくよく見ると中々の男前なのだ。口が大きいのがやや難点だったろうか。しかし、その分よく回る舌のおかげで口説き文句を星の数ほども繰り出して女を蕩かせた。
 一言でカブキ団十郎を統括すると、小奇麗にまとまった小賢しい小悪党、といったところだろう。要は少年時代までの彼はろくでもない人物であり、またろくでもない人物として一生を終えるものと周りに思われていた。
 余談だが、カブキを殆ど唯一評価していた人物がいる。尾張に住む弁天という謎多い女性だ。彼女のカブキ評は、後述の人物と対等という破格の高評価である。余人が知れば弁天の先見の明に感心し、「いくらなんでも高すぎる評価ではないか」と呆れもしただろう。幸いに彼女はそうした人物評を外に漏らすことがない性格だった為、この事は周囲に膾炙しなかった。

 さて、カブキが十九になった頃に根の一族がジパングに乱を引き起こした。
 この事件で劇的に人生の転機を迎えた人物は大勢いるが、その中で最も人間的に成長した者達の内の一人がカブキだった。
 もっとも、成長したといってもそれは結果としての事である。過程の前半においてはやはりどうしようもない人間性がそこかしこに垣間見えていた。
 根の一族は強かった。人の知恵に獣の腕力を持つのだからそれは当然で、普通の人間の敵う相手ではない。乱の当初はそうした事が分からずに闇雲に討伐の軍を興した大名が多いのだが、どれも惨憺たる結果に終わっている。唯一の例外が尾張での事例だった。
 尾張の犬山の城主が率いた討伐軍は結局根の軍に勝てはしなかったのだが、しかし互角に戦いを終える事が出来ていた。それは軍中にカブキ団十郎がたまたま参加していたことによる。
 カブキ団十郎は武器を用いての戦闘能力も群を抜いたものであり、加えて「術」を使う事が出来る。根の一族の兵士たちは時が経てば経つほど強くなるというその性質乱当初である上この時期はさして強くなく、ただ容貌だけが恐ろしげというのが事実ということで(集団心理においてはこれだけでも充分な戦力となりうる。事実各地の軍は先鋒の小競り合い程度で恐慌を来たした結果壊滅したというのが殆どだった。)、カブキの敵とはならなかった。無論誰に率いられるでもなく、勝手に参加して、勝手に暴れて得た結果である。
 一人で数十もの敵を倒したカブキ団十郎は「尾張の悪童」から「尾張の英雄」へと周囲からの評価を一転させた。
 だが、当のカブキ本人はこの大戦功を醒めた目で捉えている。
 成る程勝ちさえすれば、周りはちやほやしてくれる。それは憎まれっ子であったカブキには心地よいものだった。ここで調子に乗って尾張での根の一族の討伐に成功でもしたものならば、恐らくは他の国の根の一族を討伐させられる事になるだろう。いかに楽勝だったとはいえ、今後もそうなるとは限らない。
 それくらいなら、上手く生かさず殺さずと根を相手に戦果を少しずつ稼いだ方が楽だし美味しいのではないか。と、そういう風に犬山城城主からの一次報奨金で連日連夜馬鹿騒ぎをしながらカブキ団十郎は考えた。
 また、カブキ団十郎は坂東での大門教事件を知っている。それを解決した者の中に兄弟子である(らしい。カブキからすれば急に降って沸いた兄弟子だった)大蛇丸がいることも、その兄弟子が自分をはるかに上回る強者である事も。放って置けば大蛇丸が根の一件も解決するだろうと考え、その事でますます宴の日々に自堕落に埋没していった。
 結局、カブキの計算は瞬時に破綻している。彼が全く想像しなかった理由で。
 カブキより弱い者が、勿論大蛇丸ではない人間が、尾張の根の一族をあっさりと撃退してのけたのだった。その者の名を戦国卍丸という。ちなみに、根の乱終結時にはジパング全土でも卍丸に勝てる人間はいないのではないかというほどの剣士となるこの少年も、当時はカブキより弱いというのが事実だった。
 それだけにカブキの衝撃は大きい。手柄を先取りも総取りもされて悔しいという気持ちは勿論大きいのだが、腹立たしいことに卍丸の壮挙を痛快と感じてしまったのだ。「目立って、目立って、目立ちまくる」という目標を掲げてる人間として、これは惨敗に等しい心境だったろう。
 早くも尾張を出て次の根の一族を求めて伊勢に向かわんとする戦国卍丸の前に立ちふさがったカブキ団十郎は、旅への同行を無理やりに宣言した。手柄を取られては困るというのが口にもした建前だったが、実際のところは何かしらの期待を内心に宿していたのではないだろうか。
 飽き性でもあるはずのカブキ団十郎は、一度だけ挫折して卍丸の下を離れたものの根との戦いを最後まで戦い抜いた。結果として先述の通りに大きく人間的に成長を遂げ、確たる名声をも物にした。大和地方においてカブキの名を知らぬものは殆どいないし、その名は英雄として通用するのである。
 尾張の悪童はジパング一の伊達男へと成長を遂げた。

 しかし、カブキの威光が薄い土地がある。それは京だった。根との最終決戦の地であり、その時ほぼ全ての民衆が死滅していた為に卍丸やカブキの活躍の終盤を知らないのだった。
 奇妙な描写であると思う。「死滅していた」から「知らない」。当たり前のようで少し矛盾している言葉の理由は、死んだはずの京の民衆は根の乱終結時に生き返った事にある。なお、京で死んだわけではないのだがこの時の復活劇の中に百々地まつりの姿もあった。
 ともあれ、カブキ団十郎最大最後の活躍を京の民は知らない。そこに至るまでの事は知っているし、京は北座でのカブキ団十郎の公演の好評もあって、この奇妙な男は京に受け入れられている。
 だが以前からすれば人間的に格段の成長をしたとはいえ、基本的にはまだまだカブキ団十郎はろくでもない男だった。
 北座の儲けをほぼその夜の内に遊びで費やしてしまう。しかしこの事は財を貯めこんで独り占めしているわけではないという何よりの証明であり、また京の金の流れが活発になるという予想外の効果があった。おかげで北座の人間は他人からのやっかみを受ける事が無かったし、むしろ「お宅の大将のおかげで大変やねえ」と同情されたほどである。
 女遊びも派手だった。この点、根の事件以前も最中も女と見れば全員を口説くのがカブキという人間だったのだが、それに比べればやはり今はましである。恋人や夫がいるという女には手を出さないし、相手の立場を鑑みるという我慢をこの男は覚えたらしい。とは言え相変わらず馬鹿にもてるので京の男の嫉妬を買っている。ただし京においてカブキと実際に懇ろの中になった女はいないらしいというのが徐々に知れ渡り、多少は彼らの鬱憤も晴れたようである。加えて後述する事件を解決した後は文句を言うに言えなくなった。
 いたずらも相変わらずよく嗜んだ。幸い破壊的とか破滅的な代物ではなく、建設的とか創造的な物であり、カブキがいたずらを仕出かした場所は一時的な名所として賑わった。
 要は、問題も起こすがその分を補う充分な見返りもカブキは齎している。
 しかし面倒事も度を超えた数を引き起こしたせいでカブキの威光に京の民衆は疑問を感じ始めた。本当にこの男は巷で騒がれているような英雄なのだろうか、と。
 カブキ団十郎は幸運だった。時を同じくして京に起こった事件を短期間で解決する事で改めて、京の民達にとっては初めて、活躍を示したのである。
 もっとも、京の事件は早くに解決したが後始末は海の外の異国にまで波及していた。この為カブキはすぐさま海を渡って異国──倫敦の地に渡っている。
 カブキ団十郎と阿国が出会ったのはこの頃だった。


 北座の看板がカブキであるように、南座の場合は阿国が看板である。
 阿国が得意とした演目は、実はまだ定着しているとは言えない全く新しい内容の物だったようだ。時には男装して粋な生活を演じてみせたり、またある時は神を宿したかのような荘厳な舞を披露したりする。
 ちなみにカブキの北座公演は自身の活躍譚を面白おかしく演劇とした内容だった。もっとも、同じ筋書きのはずでも演者のカブキの気分次第で内容は二転三転するというのだから出鱈目極まりない。この事への客の突っ込みや野次、更にそれへ罵倒し返すカブキの有様なども見所の一つとなっていた。ともあれ、いかに面白かろうとも後代まで定着しがたい舞台内容であるのは間違いない。
 そういう意味では阿国の方が文化や芸術としての格は備えていたし、高い域にあった。それ故か、彼女の名声は遠い倫敦の地にまで響いていたのだが、これは大蛇丸が故意に流した噂だったようである。
 大蛇丸がまつりに語ったように、阿国はショーグンの御庭番時代の彼の部下だった。両名ともその道における天才である。直接の師は違ったようだが組んで仕事をこなす事が多く、数年先輩だった大蛇丸のことを阿国は慕うようになっていた。
 慕うといっても、別にそれは色恋の話ではない。あえて適当な言葉を捜すなら兄貴分といったところだろうか。自分と同じように実力があり、また、同じように感情表現が下手な大蛇丸は当時の阿国にとって唯一信頼出来る存在だったらしい。
 しかし、今の大蛇丸は感情豊かである。そうなるに相応しい経験と成長を得たというわけなのだが、それが阿国には眩しくて羨ましい。御庭番を引退した大蛇丸(極めて円満に進んだ点において、まつりの場合を遥かに凌ぐ例外ぶりである)を追いかけて抜け忍の身になる事を軽々と選んでしまった。

 阿国は感情表現が下手である。いや、感情に乏しいとか、薄いといった方が正しいかもしれない。
 これは彼女の天才が理由である。阿国はその身に神を宿すことが出来る。この場合の神とはジパングにおけるそれの意味が近く、人知を多少なりとも超えた力の事を指すと考えていい。
 その細腕からは信じられないほどの強力を発揮したり、或いは雷を呼んでみせたり、或いは傷ついた人間を癒す波動を体から発する。そうした異能を阿国は有している。
 彼女にも正確な事はよくわからないようなのだが、その身を自分以外の何者かに一時的に貸すという行為の為に、阿国はその間中思考や感情を無にしなければならない。この為、弊害として感情表現が希薄となったというわけである。
 一応普段は一般の小娘としてのそれらしい演技で誤魔化してはいる。しかし、よく見るまでもなくその演技はどこかちぐはぐだった。幸か不幸か、肌を随分と露出させてしなやかに女体の美と妙を舞台で映えさせたにもかかわらず、この為にお得意となった客の夜の相手をするという仕事を阿国はしていない。舞台がはけるとふらりと消える為、カブキとは全く正反対に阿国は謎の役者として有名だった。

 京で起こった新たな事件(大門教事件と呼称するのが楽なのだが、これは坂東でも同じ集団が起こしたそれと似ているようでその実かなり異なるのがややこしい。その為、より正確に近い呼称としてデーモン教事件と呼称する)。これの解決に当初大蛇丸は自身が赴くつもりだった。
 それを止めたのは同業者の嫉妬である。以前の大門教の騒ぎで大きく名を上げた大蛇丸が再びこの事で活躍する事を彼らは許さず、もし海外に渡りでもしたのであれば、残った大蛇丸の部下を討ち取らんと脅したのである。愚劣極まりない話だが、大蛇丸はこれに屈さざるを得なかった。情が豊かになった分、大蛇丸は強くもなり弱くもなったと言える。
 ただし、勿論黙ってばかりいる大蛇丸ではない。あらかじめ今現在デーモン教が活発に暗躍しているという倫敦の地にジパングの名物役者の噂を流しており、京で事件が起こる遥か以前に阿国を船上の人にしていたのである。さすがにこれを責める同業者はいなかったし、「手柄が欲しければ同じようにすればいい」という大蛇丸の無言の脅迫を理解したらしかった。
 さらに大蛇丸の部下ではない、忍者ですらないカブキ団十郎を倫敦に向かわせている。これも元々責められようのない話なのだが、有り難い事に、大蛇丸の頼みをカブキが蹴って個人の意志で倫敦に向かうというのが公になった為にその心配も無くなった。

 阿国はその異能を抜きにしても優秀な忍者なのだが、如何せん海外の地ではろくな働きが出来なかったようである。
 どうにか王家の血筋であり倫敦居住のレイナ姫の知遇を得たのは流石だったが、その姫をデーモン教の傀儡に攫われて救出に向かったところで力尽き倒れた。
 出来すぎた話だが、その場にカブキ団十郎が駆けつけている。しかもこの男、デーモン教の屈強な幹部(ほぼ不死身という、冗談じみた化け物である)をすでに二人倒してのけたという破格の活躍ぶりだった。救出された阿国の衝撃は大きかった。そういう風に感じる事が出来たという点でも。
 大蛇丸の知人ということは知っていたが、それでも他人は他人である。阿国はカブキに対していつもの小娘の面を被った。昔のカブキであれば或いは阿国のちぐはぐさを指摘していたかもしれないし、生来の女への優しさからやはり何も言わなかったかもしれない。
 この時カブキには同行者がいて、その男は文字通り面を被った一風変わった人物だった。もっとも、阿国とは違いその感情は豊かであり、逆にそれを押し殺す為に面をしているようである。
 阿国からすれば、この二人の男はどちらも羨望の対象だった。大蛇丸とは似ても似つかないのに、である。この頃初めて、阿国は人としての感情を渇望するようになった。
 デーモン教との一件が終結して京に戻った今、阿国は目標を得た人生に新鮮さを感じていた。
 その矢先に百々地まつりに敗北した事になる。
 彼女もまた、阿国にとっての興味深い人物となった。

 百々地まつり。
 カブキ団十郎。
 阿国。
 三人が三人とも、ジパング屈指の使い手である。
 こういう連中が偶然とは言え京の地に集まったという事に大蛇丸は嫌な予感がしないでもない。だが、この時彼が感じていたのは抑えきれようのない昂揚感だった。
 何をするにしてもしないにしても、どうあれ面白い事になる。こちらの予感の方が強いし確実でもあろう。
 不謹慎にも大蛇丸は笑いをこらえるのに必死だった。
 それは、微妙にささくれ立った空気を早くも醸し出しているまつり・カブキ・阿国の関係のせいでもあったのだが。

第一話 花の都の男と女 1

「さーて、今日はどの辺を回ろうかねぇ」
 仮の住まいの屋根に上がり、夜の心地良く澄んだ空気を思い切り吸い込んで背伸びをする。百々地まつりの若々しい肢体に次第に活力が漲ってきた。ためらう事なく次々と民家の屋根を駆けては跳ね、その姿はたちまち夜の闇に溶け込んだ。
 百々地まつりは忍者である。いや、「忍者だった」という方が表現が近い。歳は十九といまだ若年ということもあり、単体の忍者としては無名に等しかった。
 彼女の姉花火と妹みこしを合わせての「百々地三太夫」という通り名は一年ほど前にジパングの畿内地方を中心に知れ渡った名である。百々地三太夫の属する伊賀忍軍はここ数世代に渡って天才を輩出する事が出来なかっただけに、まつり達の活躍は同業者達の間に新鮮さと華々しさを伴った衝撃を与えた。
 しかし、二年前からほぼ一年にかけてジパングを騒がせ続けた事件において名を知らしめた百々地三太夫も、最近はその名を聞かれなくなって久しい。
 それもその筈、まつりの姉と妹は婿を迎えて後継者を産む事に専念する事になり、一人まつりのみが忍者稼業を続けるというのが現状であった。「百々地三太夫」の名を引き続き使用しても別に構わないのではないかという意見も伊賀の中にはあったのだが、それは全くの無駄に終わった。
 百々地まつりが伊賀を出奔し、その祖父であり頭領である百々地丹波は孫の勘当を公にしたせいである。
 本来なら勝手に出奔した忍者に対しては追っ手が差し向けられる事が通例なのだが、「勘当」という一般家庭の問題のような言葉で片付けられた事によるのか、まつりの家出(もっとも、本人はきちんと抜け忍であると認識している)は極めて平穏な空気の下に成し遂げられた。
 伊賀を出たまつりは、以後数ヶ月ほどを全くの無目的のまま流浪の旅を続けている。わざわざ抜け忍の身になってそんな生活をと同業者が聞けば失笑しただろうが、当人からすれば「自由気ままに生きてみたい」というのが目標であったため、無為の生活もこれはこれでと楽しんでいた。
 そうはいっても伊賀からの援助に頼る事が出来なくなった為、手持ちの路銀が少なくなったまつりは何とはなしに京へと流れ着いた。もっとも、野宿に必要な技術は備えているのだから、金が無くて寂しいのが三割で残りの七割は人恋しさだとか面倒事を求めてのことといったところだろう。
 折りしも京に再び事件が起こった頃であり、この時影で活躍した事で百々地まつり個人の名がようやくジパングに知れ渡り始める。結果として(と言うにはやや無理があるが)働き先を得る事にもなり、まつりはしばらくは京に身を落ち着かせる事になった。



 今のまつりは京都隠密などという、なんともいかがわしい職に就いている。つい半年前までは抜け忍だったのだからそれでも多少の進歩はしているのだが、仮称の職業というのもどうにも気が引き締まらないものである。
 昼間は一応町娘としての生活を送っている。さすがに日中でまで隠密稼業をする気にはどうしてもなれなかったので、多少緊張しながら上司に頼み込んだのだ。この上司というのも物分りの良い人物で、あっさりとまつりの提案を引き受け世話をしてくれている。自身が着物問屋の若旦那という表稼業を持っている事もあってか京に顔が利く彼のお陰で、まつりは住居と仮の家族を手に入れたという次第であった。
 現在まつりには偽の両親がいて、彼らと共に生活をしている。上司の紹介ながら元々面識がある人物達だったのは幸いだろう。父親役の名は茂平と言い、母親役の方はお雪と言う。実は両人とも偽の娘と同様伊賀の抜け忍だった。
 彼ら二人は一世代前の伊賀の主力忍者である。年齢的には丁度頭領の百々地丹波とまつり達の丁度中間にあたる。彼らはジパング全土を見渡しても極めて珍しい夫婦忍者であり、今も尚こうして生き延びている事から両者の力量が窺い知れる。情の絆が二人を繋ぎ、そしてそれ以上に身を縛りつけ弱体化するのが夫婦の忍という物であり、にもかかわらず本来の実力以上の物を発揮している茂平とお雪の二人は異例中の異例だった。
 流石に寄る年波には勝てなくなってきた為に丹波から暇を出されたのだが、これは長年伊賀に尽くしてきた二人への温情措置であり、またまつりを気遣う感情の表れでもあった。しどろもどろに孫娘の事をどう切り出すか話しかねている真摯な祖父としての姿に、茂平とお雪は快くまつりの元に就く事を引き受けたのだった。そうして京に辿り着いた夫婦を、まつりの上司が拾い上げたという寸法である。
 最初はようやく手に入れた自由の筈がどことなく束縛されてるように感じて不快に思ったまつりだが、忍びには似つかわしくない生来の明朗快活さから家族芝居にすぐに適応し、これを楽しみ始めた。もう子供は望めない茂平とお雪にとっても、唐突に振って沸いた娘は出来すぎるくらいによく出来た娘だった。伊賀の人間にとってまつり達姉妹はある意味頭領以上に大事な存在であり、彼ら二人も三姉妹に掛け値ない好意を抱いていたのである。ぴたりとはまった三人の芝居は、余所者を排除しがちな京の空気の中にもすんなりと溶けこんだ。気立ての良い両親に、気風が良く頼りがいもある娘さん。それがまつり達への京の民衆の評価だった。



 いつの間にか、民家が押し並ぶ区域とは明らかに様子が異なる豪奢な建物がまつりの視界に広がっている。四半刻も駆け続けただろうか。にもかかわらずまつりは息を荒げてはいない。日に十数里を軽々と走破してのけるのが忍者という物であり、何も彼女だけが特例という訳ではない。とは言え、走ってのけた距離は並みの忍を遥かに凌駕する物だったのだが。
「……っと、こんなとこに来ちまったか。何でだろうね」
 誰に聞かせるでもなく、一人呟く。草木も眠る丑三つ時とあっては人影などあろう筈もない。……本来は。まつりがこうして夜の闇の間を駆け抜けるのはこうした本来静謐な時間の筈の中の『有り得ない』状況を対処する為であり、それこそが隠密としての彼女の仕事になる。つまり、今この時間帯に屋根の上などという辺鄙な場所にいる女の独り言を聞きとどめる者がいればそれは『有り得ない』事であり、まつりの出番というわけだ。もっとも、何者かの気配を先に察知したなら独り言など漏らす筈もないし、まつりの鋭敏な感覚の探知網をすり抜けて聞きとどめた者がいたならそれは彼女以上の使い手である可能性も高い。
 流石にそれは不安視しすぎと言えなくもないが、既にまつりは一度同じような状況で自分を超える使い手に出会ってしまっていた。それが、彼女の上司との出会いである。話は半年前に遡る。



 まつりが京に着いた頃は今以上に花の都は混沌としており、どうにか復興の兆しが見えてきたといった時分だった。真っ先に着手されたのはタイクーン等が政務を行なう御所で、そこに興味を駈られて忍び込んだ時にその男と出会った。
「それ以上は進まない方が良い」
 いきなり聞こえた声を感じた瞬間、まつりは反転して脱兎の如く駆け出している。理屈などというこの場合まるで役に立たない物は頭に欠片も浮かばず、その分研ぎ澄まされた本能が総動員で逃げ出す事を彼女に薦め、それに忠実に従ったのである。何より惜しいのは時間なのだから。
(まずい……ね。引き離せない)
 心中薄ら寒い物をまつりは感じていた。拍子を巧みに変えて疾走しているにもかかわらず、背後の人物はまったく間隔を開けずに彼女にぴたりと付いて来ている。体術ではまつりを数段上回っているかもしれない。後日追跡者当の本人が語った所によると、体捌きや身体能力で彼が勝っていたとしてその差は僅差である、と。また、この時は追う者と追われる者の心的余裕の差こそが大きかったとも。心構えについてはまつりも認めるところではあるが、僅かと言えども動かしがたい力量差があるのは事実である。
 見晴らしの良い空間が目に入った時、かき回されていたまつりの心中は一つ所に定まった。
 そもそも伊賀を出奔したのは何の為か? 自由気ままに自分らしく生きる為である。自分を凌ぐ相手と戦い敗れるのは決して悪くはない。例え逃げ切れたとしても深い悔恨に襲われるのは間違いなかったからだ。自分らしくない、と。ならば答は一つ。心ゆくまで力を出し切り戦い抜くのみである。
 一瞬まつりの脳裏に一人の男の顔が閃光の様に走る。どうやらそれも悔いに繋がる様に思えたが、是非もない。既に彼女の表情は不敵さを湛え、追跡者の姿を見据えていた。今のまつりを支配しているのは、極上の美酒のような戦闘への昂揚感だった。
「もう、鬼ごっこは終わりかな?」
 男が憎らしいまでの平静さでまつりに問い掛ける。驚いた事に、まつりの様な行動しやすい出で立ちでも、隠密らしい機能性溢れる出で立ちでもない。着流し姿なのだ。長髪も括るでもなく微風にそよめいている。
 一見女と見まがうほどの優男。どう見てもそういう風にしか見えなかった。冷酷さが漂っているのが似合う顔立ちなのに、何故かそれが微塵も感じられない。……それがまつりには完全な余裕に見えて、何よりも恐ろしかった。
「あぁ。みっともなく逃げ回るよりは、いっそ綺麗さっぱり負けちまおうと思ってね。あんたには悪いけど付き合って……もらうよ!」
 どんなに恐怖心が沸こうと、問題はない。それが証拠に一気呵成に飛び込んだまつりの速度は彼女の最速を極めた。
 外套から取り出した苦無が男の首筋を襲う。わずかに身を屈めこれをかわした男の肘がまつりの鳩尾を突かんと迫ったが、まつりは反転して回し蹴りを繰り出した。すでにその時には男は飛び上がり、今度は鉄槌の如き足突きをまつりの頭蓋に見舞った……かのように見えた。まつりは回し蹴りの勢いを殺さずわざと倒れこんで必殺の一撃を避けてみせたのである。転がりながら手に持っていた苦無を投げつける事も忘れていない。
 しかし、なお冷静さを崩さない男の心胆は恐るべき物である。一分の見切りで苦無をやりすごしながら手で掴み、足が地に付いた瞬間駆け出しまだ倒れているまつりの喉元に先程手にした得物を突きいれんとする。同じく一分の見切りでしのいだまつりは男の手を掴み投げ飛ばした。叩きつけるなどといった事にまで気が回らずただただ投げ放しただけだったが、期せずしてこれが一局目の終了となった。ひらりと余裕を持って着地した男と、まつりが立ち上がったのが同時である。その距離は戦闘開始前と同程度に開いていた。
「あんた、中々やるね」
 一手一手が死線を潜る様な応酬を終え、流石にまつりの息は荒い。彼女ほどではないが、男も若干ではあるが涼やかさを損なっている。ここまではまず互角と言えた。
(けど、気に食わない。何か隠し持ってそうな雰囲気だけど)
 敵の手の内が分らない以上、まつりは当然ただ死力を尽くすのみである。しかし、何か思い切った手を打たなければ状況は好転しそうになかった。例えそれが成功しても勝てる保証はないのだが。
 突如としてまつりは外套を投げ捨てた。暗器が多数収められているとは言え然程重量はないのだが、それでも今の彼女にとってはどうにも鬱陶しい。苦無を新たに一本だけは手中にしていたが、それと己の体術が通用しなければ後は手の打ち様がなくなる。つまり、今の彼女は自分をとことんまで追い詰めて、その先に生じる一手を追い求めているのである。
「……良い目だ。恐らく次で終いになるだろうが、私も全力で応えるとしよう」
 男がゆっくりと微笑む。まつりの趣味には合わないが、大方の女性を虜にするのは疑い様のない笑顔である。それも、この状況にあってはただ小憎らしいだけだろう。
 笑顔が消えた瞬間が二局目の、最終局面の開始となった。今回もまつりが突進し、男がそれを迎え撃つという展開である。
 男も先程と同じ出だしとすぐに悟ったのだろう。その場に立ち止まって迎撃せんとする構えに、まつりは自分の奇策が半ば成功したのを確信した。
 相手の方が強い。それは間違いない。だからその余裕は崩れる事無く今も男の身を覆っている。ならば、自分が同じ戦い方をすれば、相手も同じ手で迎え撃つのではないかと踏んだのである。
 男を直前にして振りかぶったまつりの手は振り下ろされなかった。先程と同じように自分の前で立ち止まり苦無で襲い掛かると思い込んでいた男の顔に瞬時に困惑の顔が走る。その混乱の原因に思い当たる前に、鈍い衝撃を感じた瞬間男の思考は刹那の間途絶えた。気が付くと、彼の体は屋根を離れ宙を舞っている。
 まつりが採った奇策とは、ただ突進して体当たりするだけというあまりにも乱暴な一手だった。むしろ愚策に近い。実はこうした手段の方がこの男には通じやすいのだが、それを本能で選び取ったまつりの勘は賞賛に値するだろう。しかし、蛮勇が通じたのはここまでだった。
「終わりだよ!」
 空中で動きを変えるのはたとえ熟練の忍でも容易な事ではない。奇跡的に訪れたこの好機を生かすためにまつりは自らも飛び上がる。彼女が油断をしたとすればこの一瞬であったろう。ために、男の反応への衝撃は層倍となった。
 男の手が軽く翻ったと見るや、何かがまつりを目指し飛来する。
「……なっ!?」
 すんでのところで手にした苦無で弾き落としたものの、その際に生じた金属音と火花で男の姿を見失ってしまった。空中にいた筈なのに、である。着地したまつりの狼狽は深い。その首元に、小刀が押し当てられた。激闘で体中に熱を帯びた今の彼女には、小刀の冷たさは死と直結するかのように感じられた。
「ここまで、のようだ」
 背後から男の声が聞こえる。溜息交じりだったあたりに善戦したという証拠があるように思え、僅かなりともまつりの敗北感を癒した。
「ああ、あたしの負けだ。お見事だね。けど、どうやったんだい?」
 まつりが尋ねたのは自分が敗北に至った過程である。それくらいはどうにか聞いておきたい。
「私もそれなりに場数を踏んでいる。あれ位の窮地で総身が竦む事は無い。先程は幸い手が利いた。主に忠実な手で、先刻君が投げた苦無を勝手に投げたのだ」
 あっさりと言ってはいるが、どれだけの死線を潜ったのかと思うと戦慄する思いである。自分の体をとことんまで客観的に見つめる。忍者としての基本であり、究極の高みでもある。その域にまつりはまだ達していない。
 手にした苦無を放り投げる。それが、負けを認めた証だった。まだ彼女には鍛え抜かれた体術という武器は残っていたが、それを振るう気にはなれなかった。敗北感だけなら立ち向かいもしただろうが、今まつりの全身を支配しつつあるのは満足感だった。
(京に来てすぐにこんな強い相手と戦えたんだ。満足だ。それに……)
 既に一度十二分な満足のもとに死んだ身である。まるで冗談としか思えないように生き返りはしたが、その時以来自分が今生きているのは望外の儲け物だと思っている。いつ死んだとしてもそれ程悔いはないだろう。まして、こうして思う様に戦えたのだ。二度目の人生の終焉も、上出来な物と言えそうである。
「首を刎ねるなり、何なりと好きにしな。もっとも」
(辱められるくらいなら、舌噛んでさっぱり死んでやるけどね)
 敗者にも誇りは存在するのである。常人以上に死に親しんでいる忍びの出であるからこそ、まつりはその事を一段と理解していた。忍者にとって、いや戦いに身を置く者にとって、死とは正に最後に咲く花ではないか。それを汚されるくらいなら自ら果てる。
「ふむ。さてどうしたものか」
 呆れた事に、男は本気で悩んでいる様子であった。まさかに生き死にのやり取りに慣れていないというわけではないだろうが、どうにも見当違いの反応に、まつりの方も困惑させられた。
「どうしたも何も……情報を聞き出すなり、抱くなり何なりとあるだろう?」
 先程辱められるくらいなら死ぬなどと覚悟しておきながら、思わず口走ってしまった自分に呆れる。それ程に男は真剣に悩んでいるのである。
「情報、か。無益な事だ。おそらく私が君から得られる事はそれほどないんだよ。……百々地まつり君」
「なっ!?」
 有り得ない事である。如何なる場合においても、戦いの中で忍が自ら名乗る事はまず無い。名前を知られているという事は、未熟者であるという事と等しい。名前から得られる情報というのはそれ程多いのだ。
 逆に高名な忍というのは、例外なく名前や極めた術の詳細を知られても不都合ないほどに卓越した使い手である。壮年期の百々地丹波や、甲斐の影老などがそれに当たる。百々地三太夫の名は確かに過去の一件で畿内には知れ渡ったが、自分個人の名は己が祖父に及んでいない事をまつりは知っていた。
「それに、その気でもない女性を抱くほど飢えてはいない。付け加えるなら」
 次の一言は、先程の戦い以上にまつりの精神を打ちのめした。上には上がいるもんだ、などとまつりの頭のどこかで誰かが言った様に感じた。
「惚れた男がいる女性を抱くほど下世話でもない」
「……っ!?」
 まるでそこいらの小娘のように、今のまつりは顔を真っ赤にして憤慨している。忍らしさなどは微塵も感じさせない。
「あ、あんた一体何者なのさ!」
 敗者が問い掛けるのは本来掟破りなのだろうが、もうそんな事はどうでも良かった。からかわれるのは嫌いである。
「私の名前? 私は大蛇丸という」
「!」
 もう何度自分が驚愕したかさえまつりにはわからなかったろう。しかし、この度の驚きは、それまでに比べてしっかりとした実体を持っている。
 大蛇丸の名前を知らない忍びの者はジパングにいない。坂東を中心に活動してきた彼の名前がジパング全土に知れ渡るまで要した時間は、忍者としては恐らくジパング史上最速だったろう。老いて益々盛んと謳われた影老でさえ、大蛇丸を相手にするくらいなら片手片足を捨ててでも逃げると公言したとされる。その力量を知る者なら等しく思いを同じくしただろう。
 そんな相手に戦いを挑んだのだ。自分の無謀に、今更ながら総毛立つ思いのまつりだった。
「……そうだな。何でもするというのであれば、丁度良い。やってもらいたい事があった」
 まつりが混乱していようがまるで意に介せず、なおも大蛇丸は涼やかである。自分はこの男の精神の牙城を崩す事は一生かかっても出来ないのではないかなどとまつりは考える。随分と、余裕も戻ってきたようだった。
「あぁ、構わないよ。恥もえらくかかされちまったしね。帳消しにするくらいには役立ってみせるよ。で?」
「何、そんなに難しい事ではない。きちんと働いてくれるのであれば、給金も出そう」
 初めて、本当の笑顔らしい笑顔をこの時大蛇丸は見せた。爽やかな様であり、人が悪い様にも見える、何とも奇妙な笑顔だった。
「この京を守ってもらいたい」



 大蛇丸とはつくづく器用な男であるらしい。多分本人にも意外だったろう事に、面倒見も大変良かった。
 「京を守れ」などという唐突で奇態な申し出をあっさりと引き受けたまつりの世話の一切合切を行なったのも彼である。水際立った手腕にまつりは大層驚いた物だが、後で聞けば何の事はない、己の部下の世話で既に慣れているという事らしかった。
  あっさり、と言ったが、勿論まつりはまつりなりに悩みはしたのである。たまたま解答に至ったのが早かっただけの事だ。とは言え、この時の彼女の思考を人が覗き見れたなら、随分驚いただろう。様々な懸念が一度脳裏を駆け巡った後、ただ『面白そうだ』という一念のみがまつりの中に残った。時間にしてほんの数秒だろうか。即答に見えて当然という訳である。
 ところで、大蛇丸がまつりを既に知っていたのは理由があった。この男、大胆にも方々の忍びの頭領達に面会を求め、その大半に成功している。百々地丹波も当然その中にあった。丁度、まつりが家出をしたのとほぼ入れ替わりという時期だったようだ。
 大蛇丸はたちまちこの老翁に好感を抱いたらしい。ジパング中の忍びを瞠目させた大博打を勝ち抜いた放胆さもさることながら、本気で孫娘を案じる姿にこの珍し物好きの男が惹かれたのは当然だろう。殆ど安請け合い同然にまつりの世話を(勝手に)引き受けた。この時、伊賀を出立する直前だった茂平とお雪を預かったのである。
 新興の忍者集団の頭目というのが大蛇丸の影の世界の看板らしい。らしいと言うのは、本人もよくわかっていないようなのだ。ただ闇雲に生きてきたらこうなったとは本人の弁だ。
 その癖その多忙さたるや、一度彼の足跡を聞いたまつりが頭痛を起こしたほどである。その時以来、怖さもあってまつりは大蛇丸が何をしたかとかいった事に興味が無くなった。
 恐ろしいと言えば、まつりが会う時はいつも決まって悠然と酒を飲んでいる。とても、多忙で身が二つ欲しいなどとらしくもない下手な冗談を言った人間の様子とは思えなかった。時間の使い方まで器用らしい。
 ただ、大蛇丸の多忙すぎるという事情もあってか、いずれまつりと配下を引き合わせるという話だけは今も実現していない。
 雇われてから半年近く、まつりは大蛇丸直属の雇われ忍者だったという事になる。



 話は冒頭に戻る。
 まつりは半年間殆ど欠かさず日課のように京を駆け回ってきた。京は今も日々形を変えていると言っていいくらいなのだが、いかに変貌しようと苦にはならず、まつりの目なり足なりを楽しませるだけだった。
 ちなみに何を見回っているのかと言うと、実は確として定まっている訳ではない(『有り得ない』状況を探す……まつりにはこれを明確な単語に出来ない)。物盗りを捕まえる事があれば、刃傷沙汰を押さえる事もある。しかし、これらは何もまつりでなければいけないという仕事ではないだろう。それに、こんな普通の仕事では飽きっぽいまつりの事だ。半年どころか一月として身が持たないに違いない。
 では何が彼女を京に留まらせているかと言うと、物の怪や化け物の類だった。
 一年程前、畿内中に化け物が溢れかえった。全くの比喩ではなく文字通りに京が血の海に沈むにまで至った、根の一族と呼ばれる連中の起こした事件である。彼らが敗れたことで化け物共も殆どが消え去ったのだが、今も時折出没する。それらの内、山間部などの人も疎らな所に出る物はジパングに元より土着している、言わば犬猫のような動物と変わりないような物なのだが、京の場合は大分事情が異なる、らしい。
 これは大蛇丸の言葉だが、一度崩壊した事で京の地脈なり結界なりはがたがたに緩んでしまったのだそうだ。特に、数百年前に国の威信をかけて構築された結界の崩壊は、一緒に失われた財宝や史跡などよりも被害の深刻さでは上回っていたかもしれなかった。応急処置をするのにでさえ、一年前後を要するらしい。つまり、それまでの非常番が、まつりの仕事となる。
 とは言え、いかに京が広大でもそう頻繁に魑魅魍魎が現れるわけではない。出番は週に一度か二度がいい所で、後は気の向くままに散歩を楽しんでいるという、まつりにとっては気楽な仕事だった。
 蒸し返すような盆地特有の京の日中の暑さが嘘のような、空気の澄み具合が酷く心地いい闇夜の中を疾走するまつり。駆けるほどに爽快感が募り、僅かばかりとはいえ存在する悩み事などが霧散していくようだ。人によっては浮世の垢が落ちる思いなどと表現するかもしれないが、そう感じるにはあまりに不穏当な思いがまつりの中に生まれてくる。
(いい気分だ……こんな日に思いっきり戦えたら最高だろうな)
 戦士としての救い様のない性。今のまつりの精神の支柱の一つだ。
 根の一族と戦っていた時の様な、また、大蛇丸の様な強敵と戦った時ほどの充足感を得る事は、今の生活でもそうそうは無い。それでも、全く戦いの無い日常に放り込まれるよりはどれだけに救われている事か。自分の心身の充実を確かめるまでもなく、まつりは充分に承知している。
「……ん?」
 風切り音の中、微かに悲鳴が聞こえた様に感じた。
 このような時刻にうろつく人間は珍しいのだが、それこそ化け物共が現れるには絶好の時期なのである。何度こういう事態に出くわしたか、数え知れない。今日も、恐らくはそうなのだろう。
(今日は本当に運が良い)
 呆れるほどの気楽さで、音がした方向へと駆ける。しかし、まさか大蛇丸とのものに次ぐ規模の戦闘を経験するとは、幸運で無邪気に喜ぶまつりでも思いはしなかったろう。
 人家も疎らな、殆ど京の西の端にまでまつりは走ってきていたようだ。格好の舞台の整い具合に身震いした。
 しかし、現場に到着したまつりが目にしたのは、彼女を一回りほど上回る体躯の化物の最期の瞬間だった。
「……ッ!?」
 肉の焦げる異臭が鼻をつく。びっしりとその身を覆っていた体毛を業火で失い、そして化け物は存在その物もこの世から消失させた。その先に立っていたのは一人の女である。
(『術』、でやったようだけど)
 目の前の女は、まつりに負けず劣らずの開放的な出で立ちである。無骨なまつりのそれとは違って、どこか官能的ではあったが。その手には短刀が握られている。急に現れたまつりをいぶかしんだ表情で見ているが、まさかその刀をこちらに振るいはしまいと、まつりは事態の認識を優先した。
 奥を見ると、道の端で男ががたがたと震えている。先刻聞こえたのは彼の悲鳴だったのだろう。目にした物が衝撃的に過ぎたのか、危機は去ったにもかかわらずに震えているというのが少々滑稽だ。
 その事にまつりが失笑した瞬間、彼女の視界で月明かりを受け何かが煌いた。女の持つ短刀が返す光のようだった。まっすぐに駆け込んできてまつりを襲わんと殺到する様にも、どこか刃物の如き煌きを感じる。
「くっ! 何しやがんのさ!」
 辛うじてでかわしながら、まつりは自分の油断に歯噛みする思いだった。
 妖怪の類が事の発端なのは間違いないにしても、それを倒した目の前の怪しげな女を軽視したのは迂闊と言うほかない。実は油断には一つ理由があったのだが、事態の展開の速さはまつりにその事を告げさせなかった。
 女の体術は見事な物だった。武術も極まれば舞踊によく似た美しさを生み始めるが、この女の場合はその気が殊更強いようである。
 しかし力量では自分の方が上だろうと、まつりは早くも確信していた。機先を制されたまま防戦一方で数合を瞬く間に費やしたが、その気になればいくらでもひっくり返しようがある。あえてそうしないのは『術』を防ぐ為である。
 まつりたち伊賀の忍びほど『術』の恐ろしさに通じた者は当代にそうはいないだろう。『術』とは何もない所から火を起こし、水を起こし、風を起こす。一体どれほどの身内が根の一族の使う幾多の不思議極まりない『術』で命を落としたことか。犠牲が出る度に対処法の数も増えていったが、過去に同じ手段を用いた一族がいたと知れば、伊賀の者達は運命の皮肉を感じたことだろう。
 まつりはその伊賀の最精鋭たる忍者である。術対策の達人であると言っても良い。
 では、術対策の最上とは何か。『使わせない』ことである。言葉にすれば簡単だが、実行するのは困難至極である。
(まったく、今日は本当に運が良いよ。怖いくらいだ)
 まつりはわざと苦戦してみせる事で、相手が術を使うのを防いでいたのだ。機先を制されたのも幸運のうちに入るというわけである。
 既に女はまつりを舐めてかかっていた。油断と言うには少々早いまでも、余裕が見え始めてきているのがその証左だ。
 まつりの手は決まっている。たとえ有利だとしても、今の肉弾戦という状況のままでは決定打を生み出す事は難しいのは相手にも分っている筈である。ならば、自然何かしらの術で打破しようとする可能性が高い。術を使う、その一瞬に賭ける。これこそがまつりの手だ。
 術というのは強力な反面、軽視できない弱点を持ち合わせている。それは術が発動されるまでの時間である。そもそも並の人間の術士なら肉弾戦の能力は皆無に等しい為、まつりの様に俊敏な戦士が相手では、術を行使する以前の瞬く間に倒されてしまう。これが火の勇者と呼ばれる人知を超えた使い手ともなれば随分とましにはなるが、それでも印を切る等の行為に一瞬の隙が生まれてしまう。いかに隙を突かせないか、それが術士にとっての命題であり、一流の者ほど常識では考えられない手段でこの欠点を補う。まつりの敵も本来ならその道にも長けているのであろうが。
「……っ!」
 相手の呼吸と自分の呼吸を測り、絶妙の契機をもって罠を張る。大きく跳んで距離をとったものの、そこでまつりは着地の際に態勢を崩したのだ。
 無論、芝居である。女はまつりの誘いを極めて悪質な誘いと知らず、むしろ好機と感じて印を切り出す。素人のまつりにも分る、それは高度な術の為の儀式だった。しかし、それこそがまつりにとっての好機である。
 既に手甲に潜ませていた指がひんやりとした感触の短刀の柄を探り当てた。この冷たさが死を直截に司るように思えて、今でもまつりは好きになれない。だが勝利の為の、そして己の生の為であるならば我慢できる。しっかりと握り締めた瞬間、まつりの脳裏に逡巡は消えていた。今ならば、決して的を違い外す事はない。
「!」
 一瞬よりもなお早いまつりの投擲の早さは、相手の驚愕を誘うのに十分すぎる程の物であった。この瞬間まで完全に格下と侮っていただけに、その驚きは層倍の物だったろう。
 女の驚愕の表情はまつりにとって想像の範囲内の物である。三下が相手ならまつりの動作への反応が追いつかずにそのまま眉間に短刀を向かえる事に間違いがないだけに、驚けただけこの敵の力量はやはり高いと言えた。
(あんたは強かったよ。けど、今日のあたしは馬鹿についてた。怖いくらいに、ね)
 敬意が持てる敵。それこそが今宵最高の幸運であるとまつりは思う。ならばこそ相手の最期は見届けなければならない。至高の敵への礼儀は、忍者の世界にもある。
 短刀は確実に距離を縮めながら女の元へ飛来しようとしていた。戦闘の中で五感が研ぎ澄まされたまつりには、そして恐らくはこの相手にも、それはひどく緩慢な速度であるように感じられていただろうが、どんなに遅かろうと止まる筈はない……筈だった。
 女の体を一瞬蒼色の輝きが包みあげる。その光が狼の如き形をとったと見るや、次の瞬間には球状の光膜へと変じて女を覆った。
 短刀が光を貫かんと殺到する。だがそれはあまりに儚い試みだった。それまでの速さが嘘の様に急激に減速し、女の額まであとほんの少しという所で完全に制止した。光が霧散した瞬間に短刀は地面へと落ちたが、その物音もどこか儚い。
「なっ! 嘘だろ……」
 嘘でなければ、夢だ。まつりでなくともそう思いたくなるだろう。それくらいにこの展開は冗談じみていた。
 術の中には同じような効能で敵の攻撃を防ぐ物がある事をまつりも知っている。しかし強大な効果を誇る反面、術者に多大な負担を強いる筈である。まして一瞬で攻撃の術から転じて使用できる物では、絶対にない。
 しかし、起こった以上は現実の出来事である。となれば当然戦闘は続行される。既にまつりの思考も体も戦闘状態へと移行していた。
 虚を突いた攻撃の速さで、今までの劣勢が芝居だった事は相手にもばれている筈だ。いくら肉弾戦の能力で上回ってるとしても、それは決定的な差ではない。一瞬たりとも気が抜けない分、まつりの方が若干不利だろう。
 雲が晴れ、月光が女の顔を照らす。まつりの記憶では常に能面の如き表情だった彼女が、今は苦渋の表情を見せている。そうしたいのはまつりの方なのに。
「それまでだ」
 草木も眠る丑三つ時とはよく言った物で、突如として現れたその男の声は大きくないものの静寂の中ではよく通った。男は大蛇丸である。
「やれやれ、顔合わせをしようと思っていたのだが、少々遅かった。初対面としては……随分手荒くなってしまったようだ」
 まつりと女の間に立った彼は、両者の様子を見て顔を振った。呆れているようにも見えるし、笑っているようにも感じられる。
「ちょっと待ちなよ。あんた、この女の事知ってるのかい。知ってるならちゃんと説明を……いや、その前にまだ決着が付いて……」
「それならば心配はない」
 まつりに皆まで言わせずに大蛇丸が言葉を制止する。その先で、女の表情がまた険しくなったのが見えた。
「先刻までの勝負なら、君の勝ちだ。いや、正確には極めて優勢といった所だろうか」
「はあ? いや、だってそれは」
「術を使えない以上、彼女に勝機はほぼない。高度な術とは……もっともあれは術ではないのだが、ともかく、続けて使用は出来ない物なのだ。今の彼女が使える術で、君との戦いでの決め手となるものは無い」
 まつりにも先程女を守った防御陣が強大で高度な物だった事はわかる。根との戦いで火の勇者も根の一族も似たような術を使う事があったが、やはりここぞという時にしか出せない大技であった様に見えた。印なり呪文なりを介さない分、先刻の防御陣はそれらよりも更に高度なのかもしれない。ならば、女の消耗が予想以上である事は想像に難くない。それに心身ともに充実していたまつりと違い、女の方は化け物相手に既に一戦終えた後なのである。
「……成る程、あたしはツいてたってわけだ」
 幸運が全てを決したとは思わない。しかし、あまりに運が良かったのも事実である。前知識が全く無い状態で戦っていたならば果たして自分は勝っていただろうか。まつりには自信をもって『勝てる』と答える事は出来なかっただろう。
「見物する分には非常に面白く有意義な戦いだったと言っておこう。だから、そう気落ちする事もない……阿国」
 大蛇丸が口にした名前はまつりをこの日一番に驚かせ、そして最初からこの瞬間まで胸に巣食っていた黒雲のような疑問を晴らした。相手に完全に機先を制する事を許させた油断の原因は、見知った人物だったからという事になる。
 京には著名な人間が多々存在するが、当然阿国もその中の一人である。彼女は、官能的な舞をもって知られる風流踊りの若き名人だった。つい最近まで半年ほども京を、ジパングを離れていたにもかかわらず、その名声は全く陰ってはいない。いや、とある人物のせいで、一層高まったと言えるかもしれない。
 京に生きる人間として、まつりも阿国の事を知っている。彼女の公演を見に行った事も二、三度はあった。まつりの嗜好にはそぐわなかったが、そんな彼女にもわかる良質な芸だったと思っている。
 ジパングに名を馳せる若く美しい女芸人。その阿国が冷酷な戦士としての一面を持ち合わせていたとは、実際に体験した今でも信じる事は難しそうだった。
 まつりの一転二転する表情で大蛇丸は彼女の心境を大方理解したようである。この際、彼の聡明さは極めて有り難い。
「阿国は私の部下、という事になる。本当は後輩の方が正しいのだが、何故か私などを慕って手駒になってくれている」
 坂東で名を上げた後、大蛇丸は僅かな同族をまとめて自らがヘビ仙人となる事で一族の再興を図った様である。ところがその準備の最中に出会った人物に感化されて、今は仙人になる為の弟子入り修行中という事らしい。しかし、そんな事情を知らずに彼を頼って助けを求めてくる者や見捨てておけずに助けてしまった者達等をかくまい続けた結果、大蛇丸の元には小さな集落くらいなら簡単に形成できるほどの人が集まっていた。いずれ劣らぬ曲者揃いながらも力量は確かなので、もしも暴走すると取り返しがつかないかもしれない。という事で、大蛇丸はやむなくこの連中を組織化する事で規律という檻の中に閉じ込めたわけである。ちなみに、見る者が見れば、恐ろしく間隔の広い檻である事がわかっただろう。ヘビ一族とはよく言った物で、縛り付ければ縛り付けるほどするりと見事に抜けてしまう、そうした習性を他ならぬ己の身をもって大蛇丸は弁えているのである。
 忍びの世界では大蛇丸は新興勢力の主という風に知られているのだが、今の所彼にそうした意図は無い。大蛇丸自身はあくまで身内の世話をしているという認識なのである。ただ、主も部下も随分と捻じ曲がった認識を持つ人種なため、誤解は常に彼らに付きまとう。
 第三者に等しく、また本物の忍者の世界に身を置いていたまつりが見るに、大蛇丸達の組織はやはりちぐはぐである。仲間意識や家族意識(めいた物)は強いように見えるが、その実彼らの絆はまだまだ脆い。ぎりぎりで組織としての体裁を整えさせているのは恐らく大蛇丸への絶大な信頼なのであろうが、それだけでは足りないのだ。寄り添うばかりが真の絆ではあるまい。無論大蛇丸には周知の事であり、彼らの自立を望んでいるのだが、雛達は親鳥の元から巣立つ気は無い様だった。大蛇丸の心労たるや、いかほどの物だろうか。
「つまり、この阿国……さんも、あたしと同じように京の厄介事を治めてまわってる人間、って事なんだね?」
「そうだ」
「そういう事は早く言って欲しいよ、まったく。真剣に殺しあったあたしらがまるで馬鹿みたいじゃないか」
「拳を交える事で生まれる友情もあると聞くが」
「あんたは冗談下手なんだから、そういうのは止めた方が良いよ」
「……む」
 意外にこたえた様でさしもの大蛇丸も口ごもってしまっている。どうも、真面目一辺倒の人間と思われるのが嫌であるらしい。
 阿国は先程から一言も発していない。まつりに敗北した事が堪えたとでも言うのだろうか。能面の様な表情からは何かを察するのは非常に難しい。
「まぁ、何だ。とりあえず、よろしく。あたしは百々地まつり。まぁ、まつりってだけの方が気楽だからそうしてくれると助かるよ」
「……」
 差し伸べた手を握る阿国の掌は驚くほど冷たい。
 新しい仲間関係の発足が嬉しいのか頻りにうんうんと頷いていた大蛇丸だったが、不意に何かを思い出したのか、はっとその動きを止めた。
「あぁ、そうだ。もう一人紹介しておかねばならない人間がいたのを忘れていた」
「は?」
「いい加減不貞腐れてないで出てきたらどうだ」
 阿国の掌に力がこもり、僅かに熱がさす。恐らくそれはまつりも同じだったろう。出てきた男は二人にとって特別な意味のある人物だったから。
「「カブキ!?」」
 カブキと阿国、そしてまつりの視線が複雑に交差する。実に楽しそうな笑みを大蛇丸だけが浮かべていた。

09/05/18

……3年近くも放置してたとはw
ということで、再開。

離れてた間中かまけてたのが殆ど某アイドルゲームにってのが我ながら呆れもするw